第二話
「マチウ!」
事務所の廊下で呼び止められる。駆け寄ってきたのは、活動休止から復帰して、多忙を極めているはずのムッシュ・レヴォネだ。私を探し回っていたのか、肩で息をして、怒りを宿した瞳で私を見る。ムッシュ・レヴォネのマネージャーとして勤めていた当初、彼から怒りを向けられることなど皆無だったが、最近はこういった機会が増えた、気がする。
ムッシュ・レヴォネがムッシュ・リーヴェのおかげで、機械人形から人間らしくなった、ということだとは思うが、怒りの要因は実際主にムッシュ・リーヴェのことばかりなので、そう嘯いてばかりもいられない。
…しかし怒ったムッシュ・レヴォネは、ただでさえ目を逸らせなくなるほどの美貌に迫力が増して、なんというか、ギリシャ神話の無慈悲な女神のようだ…。
「なな、何か御用ですか、ムッシュ・レヴォネ…」
「ルーに話したそうだな。俳優としてのオファーの件だ」
「はい、お話しいたしました…わが事務所がオファーを受けましたことも…」
はあ、と大きなため息を吐いたムッシュ・レヴォネは苛立たしそうに額を抑える。眉間にマリアナ海溝のごとき深い皺も寄っている。これは、落雷の前兆だろうか。どうかお手柔らかに…。
「…ルーはまだ、身体が癒えたばかりで、…精神のほうは、不安定だ。表舞台に立つような仕事を、あいつは望んでいない」
「それは、…ムッシュ・レヴォネの、ご意見でしょうか…」
「…」
「わわ、私は、ムッシュ・リーヴェと、話しました。ムッシュ・リーヴェも、最後には、ご納得くださいました」
「お前がルーを言い包めたのではないのか」
「そそ、そんなことは…あるかもですが…このまま、ムッシュ・リーヴェが、屋敷に籠って、隠遁されることを、ムッシュ・レヴォネはお望みなのですか」
「…それは、」
「ムッシュ・リーヴェを、愛妾扱いされているのは、他ならぬ、ムッシュ・レヴォネなのでは、ないでしょうか…」
「……」
ムッシュ・レヴォネは何度か口を開き、何か言おうとして、そのまま、口を噤む。苦悩の色がその瞳に滲み、怒りを搔き消して濁る。
「…ムッシュ・リーヴェは、私どもも、お守りしますから…大丈夫ですよ、きっと…」
私の言葉は届いていないかのように、ムッシュ・レヴォネは首を横に二、三度振って、くるりと踵を返してしまった。
「ねえ、セデュ、もしもの話、なんだけど…」
枝豆のポタージュスープを何度も掬っては口に入れずに皿に戻しつつ、ルーが言う。
夕食時、屋敷の食堂にはサーブ役のヨランダが控えているだけだ。
手を止めてルーを見つめるが、彼は手元に目線を遣ったまま途方に暮れたような顔をしている。…昼間の、映画のオファーの件だろう。私はバロットから聞かされたが、ルー自身の口からは何も聞いていなかった。
…これは彼の意思を、確認する良い機会でもある。もしルーが、芝居をやってみたいと言うのなら、私は、彼を止めることなどできない。決して、諸手を振って応援するというわけには、いかないのだが…。
「もし、演技ド素人が現場に来て、結構いい役もらってたりしたら、どうおもう? …やっぱり、むかつくよね? このやろーって思ったりとか…」
「俳優としてオファーがあったそうだな。お前はやってみたいのか?」
「うーん…どう、かな…ぼくは現場のことは、よくわからないから…」
「映画業界は、スクリーンで観るような、華やかなだけの世界ではない。労組ができて多少はマシになったらしいが…過酷なことも、目を覆うような、汚いこともさせられる。役者に人権は殆どないに等しい。駆け出しならなおさらだ。…お前は、あまり身体が丈夫でないから、勧めることはできないな」
「…やっぱり、そうだよね。セデュは、いやがるよね…」
「――私がどう思うかより、お前の考えはどうなんだ」
スプーンを握りしめたままのルーの瞳が初めてこちらを向く。困惑したような、戸惑っているような、迷いがその瞳の中にある。
…決して、喜んで舞台に立ちたがっているというわけではなさそうで、私は少し、安堵する。
…これも、ルーを隠しておきたいと思う私の、エゴなのだろう。
「…いちど受けた仕事だから、断ると、あまり、よくない気がするんだ。急に干されたりは、しないだろうけど…心証が良くないっていうかさ。相手は有名な映画監督だし…」
「事務所が勝手に受けた仕事だろう。嫌なら無理にとは――」
「でもマチウは、ぼくを信じるって、言ってくれたんだよね…」
「……」
「信じてくれるひとを、ぼくは裏切りたくない。こんなぼくでも、できることがあるなら…」
「…それがおまえの決断なら、私は従うよ。現場でも、お前を助けられるように動く」
「…」
ルーはこくりと頷いて、未だ迷いの垣間見える瞳で微笑む。
「現場のきみがみられるのも愉しみなんだ。こんどは部外者じゃなくて、関係者としていられるってこと、だろう? …ぼくがNG連発しても、おこらないでね」
「そんなことで怒らないよ」
「…へへ、きみ、ミーチャ役なんでしょう? マチウから聞いたよ。ぼく、カラマーゾフだとミーチャがいちばんすきなんだ。だらしなくって、ダメダメで、怒ったり泣いたり、人間らしくって。…きみならイワンも似合いそうだけど、やっぱり恋愛沙汰がある役の方が、きみのファンは喜ぶのかなあ?」
「…そうかもしれないな」
「ぼくはアリョーシャ役らしいから、きみに『いちばん愛してる』って、言ってもらえるのかな? 映画に出るのは、最初で最後だろうけど、きみと共演できるなんて、夢みたいだ。記念になるねえ、スクリーンの中で、君の隣に立てるなんて…」
戸惑いを振り切るようにルーは言葉を重ねる。…無理している時のルーの癖だ。本当に、彼が本心から望んでいることなのか、…周りに流されて決断させられただけなのか、私にはわからない。わからないが、詰め寄ったところで、彼を困らせるだけだろう。
…彼がこうしようと決めたことだ。近くにいられるのなら、彼を護ることもできるはずだ。私は彼の生き方を、束縛したいわけではないのだ。
「ねえ、セデュ、今日もするの?」
シャワーを浴びたあとのバスローブ姿で、濡れたままの髪で、ルーは寝室に来る。
タオルを取り上げ髪を乾かしてやりながら、脳裏にはマチウの一言が反響し増幅し、私は言葉を詰まらせる。
「…やめておこう。昨晩は、無理をさせすぎたから…」
「ええ? 今更何言ってるのさ? あんなの日常だろう?」
「…」
「そんな、良識ぶらなくってもいいよ。ぼくを抱きたくないなら、そう言えばいいじゃないか」
「…それはちがう、」
「何が違うのさ? したいんだかしたくないんだか、どっちなの? わからないなア、ちゃんと言葉にしてよ」
「……」
ぱっと小鳥が飛び立つように立ち上がったルーは寝台に乗り上げ、肩からバスローブを落とす。湯に温められ幾分か赤味を増した裸体が露になり、芸術品のような白皙が長い前髪の間から私を見つめる。
「どうするの? 今夜はひとりで寝る? ぼくをひとりで寝させるの?」
「……」
引き寄せられるように寝台に近づく私の袖を掴み、ルーはシーツの海へと引きずり込む。
「きみがぼくを抱きたくないなら、今夜は口でしてあげる。きみは寝ていていいよ、天井にあるシャンデリアの、装飾の数でも数えてなよ」
引き倒した私の腹に乗り上げてそんなふうに嘯く。ゆっくりと身体を伏せて、私のシャツのボタンに手を掛ける。
「やめ、よう、ルー、今夜は…」
無邪気に微笑むルーを見ていられなくなり視線を逸らすが、私の下腹に乗り上げたルーはそんなささやかな抵抗を鼻で哂う。
「こーんなガチガチにしといて、何言ってるの? …ほんとに嫌なら、ぼくを蹴っ飛ばして逃げたらいいよ。きみならできるだろ? ぼくより力、強いんだから…」
「ルー、待て、駄目だ、…」
「どうしたのさ、急に罪悪感に目覚めちゃった? 姦淫は罪とかそういうはなし? そのわりに、ぜんぜん抵抗していないけど…」
無造作にベルトを引き抜き放り棄て、ジッパーを下げたルーは無垢な瞳のままそこに顔を近づける。
「待て、…するなら、ゴムを…」
「ええ? ナマのままじゃだめ? いれないのに?」
「…だめだ」
「…りょうかい。じゃあ、つけてあげるね♡」
…私はルーを、妾のように扱ってなどいない。ルーは私の伴侶であって、恋人であって、大切な友人で、弟のように愛してきた、幼馴染で――
--屋敷に囲って、世間から隠して、毎晩のようにその身体を貪っておいて、何度も欲を吐き出しておいて、妾扱いしていないと、ほんとうに言えるのか?
その答えを私は、断言できない。ただ全き闇のような快楽がそこにはあるだけだった。




