第一話
呼び鈴を押して深呼吸、この屋敷を訪れるのは何度目になるか、もう数えることもやめていたが、毎回、なんというか、緊張する。アールヌーヴォー風の装飾のついた門を開けてくれるのは運転手のムッシュ・グランドだ。濃い茶色の肌の中から温和そうな目が瞬いている。無言で私を玄関まで誘導したムッシュ・グランドが扉を開ける。向かって正面に絨毯の布かれた大きな階段を控え、シャンデリアが輝く広大な玄関ホールに入るとハウスメイドのマダム…いやマドモワゼル…? オータムが出迎え、階上へと私を誘導してくれる。
床にも手擦りにも埃一つないぴかぴかの階段を上って通されたのは、ムッシュ・リ―ヴェの部屋…というか寝室だ。あまりにも無防備にむき出しにした両脚も眩しく、裸に白いシャツを纏っただけの姿のムッシュ・リーヴェはベッドに腹ばいに横たわって頬杖をつき、パン・オ・ショコラの食べかすをシーツに零しながらこちらを見た。
「やあ、おはようマチウ。…といってももうお昼かな? いやーこんな格好で悪いねえ」
ベッドサイドのテーブルに置かれた皿に食べかけのパンを放り、むくりと起き上がったムッシュ・リーヴェはシーツの上で胡坐を掻く。ちらちらと女性のような白く美しい太腿が視界を掠めるのが目に毒だ。…私は断じて、同性愛者ではないのだが。ムッシュ・リーヴェの中性的な美貌は異性愛者ですら虜にする魔力がある、と思う。
今はまだ、彼の魅力が世界に見つかっていないだけで。
「曲は昨晩完成したよ、納期はまだ先だったよね? 今から聴かせてあげようか、」
裸足の脚をベッドから下ろし、立ち上がろうとした身体がぐらりと傾ぐ。慌てて駆け寄ると、ムッシュ・リーヴェはこちらを見上げて苦笑した。
「ちょっと、きのう、やりすぎちゃって。立てないかも、はは…」
「…ムッシュ・リーヴェ、私は貴方がたのプライヴェートにまで干渉する気はありませんが…」
「わかってる、ごめんって。『日常生活に支障が出るような行為はお控えください』、だろ?」
「おわかりになっているのなら何故…」
「なんか、止められなくなっちゃってさ。あ、セデュは悪くないからね。僕が懲りずに何回も強請ったせいだから」
「詳細は聞きたくないのですが!?」
「あいつもさー、口では『もうやめよう』とか言ってるくせにさー、僕がやりたいって誘えば絶対ダメとは言えないんだよなー。たぶん毎晩もっとやりたいのを我慢してるんだろーなー」
「聞きたくないと言いましたよね!?」
「僕もさ、ほんとはもっとやりたいんだけど、いつもすぐに疲れちゃって…ほんとはずっとセデュとくっついていたいんだ、安心するから…」
「…ムッシュ・リーヴェ、仕事の話をしますよ」
「…うん」
ムッシュ・リーヴェに手を貸して立たせ、再び寝台に腰かけさせる。
幼子のようにされるがままのムッシュ・リーヴェの問うような瞳に、私は今日の来訪の目的を話した。
「貴方にオファーが来ました。イタリアの有名な映画監督から」
「…うん」
「作曲家としてのオファーではなく、俳優として、出演してほしいと」
「…うん?」
「ピエトロ・ゼン監督が『カラマーゾフ』を撮るそうで…ご存じですよね? 昨年カンヌ国際映画祭で受賞した監督です」
「それは知ってるけど、え? 何? はいゆう?」
「はい。ぜひ貴方に、アレクセイ役を演じてほしいと…」
「あのとき言ってたのは口説き文句じゃなかったのか…」
「…口説かれたのですか? いつどこで?」
「一昨年くらいにハリウッドで…まあそれはいいや、まさか受けてないよね? そのオファー」
「受けましたが。事務所の総意として」
「なんで!」
「これは好機と思いましたので」
唖然とするムッシュ・リーヴェの前に膝を折り、その翡翠色の瞳をじっと見つめる。艶やかなブロンドに白皙の肌、見た目だけなら天使のような、その儚げな美貌を見つめる。
彼はまだ世界に見つかっていないだけだ。ならば、事務所としては、彼が脚光を浴びる機会を奪ってはならない。なんとしても、世界に彼を見つけさせるのだ!
「…恥ずかしながら、私は貴方の音楽の価値はわかりません。ですが、貴方自身の価値は理解しています。ムッシュ・リーヴェ、貴方は、表舞台に立つべく生まれた人間だ。スポットライトが当てられる機会を逃してはなりません。貴方の顔と名前が売れることで、貴方の音楽はより多くの聴衆を得ることでしょう」
「…いや、でも、ぼくは、顔出しはもう、したくないっていうか…」
「ムッシュ・レヴォネとのことを案じていらっしゃるので?」
「…ぼくが、セデュの脚を引っ張るようなことはしたくない。セデュといられなくなるくらいなら、…」
俯いたムッシュ・リーヴェのほの赤い唇から、愛の告白のような、真摯な言葉が漏れ落ちる。
――ムッシュ・リーヴェの自殺未遂については、事務所の総力を上げ、ムッシュ・レヴォネの口添えもあって、極秘裡に処理された。事実を知っているのは当事者のほか、ごく僅かな人間だけだ。
ムッシュ・リーヴェが、口先で必死に虚勢を張っているだけの脆い人間であることも、もう理解している。
それでも私は、諦められないのだ。諦めるには、この人は、あまりに眩しい。
「醜聞など充分な成果を上げて、見返してやれば良いのです。余計な雑音など入ってこれないくらいに、大衆を魅了してしまえばいい。貴方にはそれができると、私どもは信じています」
「…ぼく、演技はしたことないんだけど…」
「構いません。先方も承知の上です。…どんな名優にも初舞台というものはあります。ムッシュ・レヴォネとて例外ではありませんでしたよ」
「それはそうなんだろうけど…そういうことじゃなくてさあ…」
「ちなみにドミートリー役はムッシュ・レヴォネで決定しています。ソビエトから撮影許可がおりないらしく舞台選びに難航しているようですが…」
「勝手に話をすすめないでよ…その仕事のこと、セデュ何も言ってなかったけど…」
「ムッシュ・レヴォネは難色を示しておられましたからね。療養から癒えたばかりで、貴方を表舞台に立たせることに」
「……」
「ご心配は尤もです。ですので、事務所は貴方の不平不満、すべて受け止めます。全力で貴方をバックアップします。どんな無理難題にも、お応えいたします」
「…そんなこと約束していいの。あとで後悔するかもしれないぜ」
「構いません。私どもは、貴方の可能性に賭けたいのです」
「ぼくにできることなんて、音楽のことしか、ないんだけど…」
「構いません。ありのままの貴方を、監督はお望みなのですよ。それにもし、この映画が跳ねたら、貴方は欧州でもコンサートを開けるようになるかもしれない。日本公演のときのような喝采を、また浴びてみたくはないですか」
軽薄そうに見えて、根は素直で押しに弱いムッシュ・リーヴェは、それ以上私を拒絶することもできずに、口を噤んだ。
子供のような彼を言いくるめるのは罪悪感もあるが、――ムッシュ・リーヴェは、怯えて縮こまっている闇の中から出て、ひとりで歩くべきなのだ。それがこの人を救うことにもなるのだと、私は信じている。




