第二十六話
「こっちこっち、こっちだよ!」
ぼくはおにいちゃんの手を引いて駆けだす。夜露に濡れた草が足にぐさぐさ刺さるけど、気にしない。別荘を出て、川を見下ろす丘の上まで駆けてきて、やっと僕は、おにいちゃんを振り返る。
「見て、お月様がふたつあるの。きれいでしょう!」
「…うん、…よく見つけたな。こんな場所…」
「えへへ、おにいちゃんに見せたかったんだア」
きらきらと夜目にまぶしく水面を揺らす川に、鏡のように、お月様が沈んでる。ふたつのお月様が、まるで双子みたいに並んで、白く輝いてる。
ぼくたちは丘の上に腰かけて、さわさわと川辺から吹いてくる涼しい風を感じながら、虫の声と、遠い潮騒みたいな水の音を聞く。
間近で見上げたおにいちゃんの瞳にお月様が浮かんで綺麗で、ぼくはおにいちゃんに寄りかかる。
「ねえ、おにいちゃん、キスしてくれない?」
「…キス?」
「頬にじゃないよ。くちびるに」
「…それは、好きな人のために、とっておけよ」
「ぼくはおにいちゃんがすきだよ。一番すきだ。おにいちゃんはぼくがすきじゃない? 一番じゃないの?」
「…」
「キス、してくれないの?」
「…しない。おまえはまだ子供だから」
「…ぼくがおとなだったら、キスしてくれた?」
「…」
「ぼくがおとなになる前に、おにいちゃんはおとなになっちゃうでしょ。ぼくの誕生日が来ても、すぐおにいちゃんの誕生日が来て、それで、ぼくは永遠におにいちゃんに追いつけないでしょ、」
「…」
「おとなになったら、おにいちゃんにも、好きな人ができちゃうでしょ。ぼくよりすきな人が。そしたらおにいちゃんはその人にキスして、…おとなの人は、みんなそうやって、恋しい気持ちを、表現するんだよね…」
「おまえのきもちは、恋じゃないよ。たぶん」
「どうして?」
「勘違いしてるだけだよ。真新しい事とか、楽しい事とか、そういうものへの興味が、おまえに勘違いさせてるんだ。それに、…学校にいるんだろ、付き合ってる子が、何人か」
「ぼくの一番はおにいちゃんだよ。ずっとそうだった」
「…」
「おにいちゃん、ぼくのほかに、好きな人いるの?」
「…いないよ。誰もいない。おまえより大切なやつなんて…」
「なら、どうしてダメなの」
「男同士の恋愛は、神様がいけないことだって、言ってるんだぞ」
「どうして神様がそんなこと言うの? 誰を好きになっちゃダメとか、なんでそんなこと言うの? 神様は僕たちを愛してくれてるんでしょう? なのになんで、」
「おまえも大人になったら、わかるよ」
「わかんない。全然わかんないよ」
「それに大人が子供に手を出すのも、いけないことだ」
「おにいちゃんはまだおとなじゃないでしょ」
「おまえよりは大人だよ。分別もある。やっちゃ駄目なことを、子供に教える義務もある」
「…キスしたくない言い訳だね。それならそう言えばいいのに。回りくどいことしないでさ。おまえなんかすきじゃないって言えばいいよ、そしたらぼくも諦めてあげるから」
「…」
「おまえなんかとキスしたくないって、言ってよ。おれは女の子がすきだから、おまえみたいな子供に興味ないんだって、付き纏われてうんざりしてるって、つきあいきれないって、ぼくのことなんか嫌いだって、」
べらべらと並べ立てながら泣き出すどうしようもないぼくを、おにいちゃんが悲しそうに見てる。ぼくはバカだから、おにいちゃんの気持ちがわかんない。嫌がってるのか、困ってるのか、もう帰りたいって思ってるのか、それすらもわかんない。
はやく大人になりたい。おにいちゃんと並んで立てるように。おにいちゃんを困らせないくらいに、りっぱな大人になって、それで、そうしたら、おにいちゃんの気持ちも、わかるようになるだろうか。
「言ってよ、何か言ってよ、ほんとうのことを教えてよ――」
おにいちゃんの顔がぐいと近づいて、唇になにかがふれる。柔らかくって、あたたかくって、いいにおいがする。ぱちりと瞬くと、目の前に、おにいちゃんの、長いまつ毛が伏せられている。
月夜の丘の上で、ぼくたちはキスしていた。ほんの一瞬のことだったかもしれない。とても長い時間だったかもしれない。ぼくにはわからない。なんにも考えられなかった。
ただ、唇を離したおにいちゃんが、ぼくを近くで見つめて、悲しそうに笑ったのだけ、覚えてる。
「おまえのことが大切だよ。世界で一番、…」
おにいちゃんはそう言って、ぼくを強く抱きしめた。
目が醒める。夢を見ていた。本当にあったことなのかどうか定かじゃない、昔の夢だ。…現実に、あったことだったとしたら、僕はガキの頃からわがままで自分勝手で、ヒステリーでセデュを困らせてたってことになる。…どうかただの夢であってほしい。
でも、16歳くらいのセデュは、初々しくて、すごくかわいかったな。僕が泣いて暴れると、いつも困ったような顔をして、僕を宥めて、望み通りのものをくれて。もっと見ていたかったな。夢の中で、セデュに甘やかされていたかった。
…大人になったけど、僕はセデュの本心はやっぱりわからないままだ。




