第二十三話
その日は現場の入りが、いつもより早かった。
グルーシェニカを演じるため、僕の顔と形をそれらしく作るためだ。
用意された衣装は、上半身がぴったりしてて、袖は多少緩みがあるけど、ウエストできゅっと締め上げ、下半身は長い裾が広がっている、レースで縁取られた黒のドレスだ。そいつを纏う前に、ヴェネツィア以来のコルセットできつく締め付けられて、僕はまた呻いた。人生で二度もこんな目に遭うなんて、驚きだ。あんまりきつくて、身体の形が変わっちゃいそう。昔の女の人って、タイヘンだったんだなア。
なんとか衣装を身に着けて鏡台の前に座ると、メイクさんがぱたぱたと白粉を叩く。蒼白って感じの顔色が少しずつ色味を増して、時間を掛けてベースの肌を形作り、頬紅を指せば健康的な肌色に見える。睫毛をぐいと持ち上げてアイラインも少々、濃いルージュをぐいと引いて、やっと完成だ。
…鏡の中の僕は、ちょっと見たことない顔をしている。街ですれ違ったら思わず二度見しちゃうような、甘い感じの色気のあるお姉さんって感じ。なんだか自分じゃないみたいで戸惑う。特殊メイクってすごいな、僕に圧倒的に欠如している色気まで作り出せるなんてな。…。
「きれいよお、リーヴェちゃん。腕の振るい甲斐があるわア」
メイクさんは僕の髪にコテを当て巻き毛を作りながら褒めてくれる。髪の毛も、アリョーシャとは違い、今回は地毛でいくことになったんだ。セデュが望むからって、長く伸ばしていた髪が役に立った。予想外の方向に、だけど。
くるくると巻かれたブロンドが肩に流れ、女性と言っても差し支えない見た目に変身した僕は靴裏の画鋲を抜いて靴を履き、長い裾を摘まんで現場に向かう。
撮影は修道院付属の図書館で行われる。象嵌細工の書棚にずらりと革装丁の古書が並び、飛び交う天使を描いたフレスコの天井画が美しい閲覧室だ。
「リーヴェさん入られまーす」
顔を上げたスタッフさんたちが、いつもより一段とぎらつくような好奇の目を向けてくる。
見掛け倒しだって、思われてるんだろうけど、平常心、平常心。
コンクール前の気持ちを思い出す。舞台に上がれば僕はひとりだ。満場の観衆に向き合って、自信満々なふうを装って、椅子に掛けて、音楽とただ向き合う。周囲の雑音はもう耳に入らない。僕は楽器を奏でる。僕自身が楽器になるんだ。僕はひとりで、カメラの前で、決められた台詞を歌う。決められているけど、それが初めて僕の胸に生まれた言葉であるように。
ロレンツォ君演じるカテリーナが、アリョーシャの前でグルーシェニカを褒める。アリョーシャ役は、今は小間使い役の男の子が演じている。背中だけの身代わり芝居だ。
「あのね、アレクセイさん。この方はほんとうに、現実離れしている人なんです。たしかにわがままですけど、でも、とっても誇り高い心をもっていらっしゃるの! まるで天使みたいに飛んできて、平和と喜びをもたらしてくださったのよ…」
カテリーナはミーチャへの愛を声高に並べ、グルーシェニカがミーチャを諦めると約束してくれたのだと、感極まって叫ぶ。僕はその、カテリーナの高慢を、思いあがった鼻っぱしを、ぽきりと折ってやりたくってたまらない。
セデュが君に惹かれているのだとしても、だからこそ一層、僕は、君が、怨めしいんだ。
「わたしは一言も、約束なんてしなかったわ。これでおわかりになったでしょう、お嬢様。あなたと比べたら、わたしがどれだけいやらしい、身勝手な女かってことが」
言葉がするすると口から飛び出す。驚愕したようなカテリーナの、ロレンツォ君の瞳に凝視されながら、僕は続ける。
僕はグルーシェニカだ。気まぐれにみんなを振り回す、売春婦だ。自罰的な、破滅思考の、どうしようもない女なんだ。
「さっきあなたになにか約束、したかもしれないけど、わたしは今またドミートリーさんを好きになりそう、なんて考えてるの! 前にも一度、とてもあのひとを好きになったことがあったのよ。わたしって気の弱いおばかさんなの、あのひとがわたしのために苦しんできたことを思っただけで、もう――あのひとに会ったら、一緒に暮らしてほしいって、言ってしまうかもしれない!」
アハハ、と僕は哄笑し、戸惑うロレンツォ君の手を握りしめる。
「こんなタチの悪いバカにはほとほと愛想もつきはてたでしょう。お嬢様、あなたのお手にキスさせてくださいな、あなたがしてくださったように。なんてかわいいお嬢様、わたしなんて足元にも及ばないわ!」
僕は身をかがめ、その愛らしい小さな手に口づけようとして、ふと思いついたようにそれをふりほどく。愕然としたロレンツォ君の瞳が僕を見る。信じられないものを見るような目だ。洞窟の奥で怪物を見つけた子供みたいな。忌まわしいものを見るような目。
「やっぱりやめておくわ。早速ミーチャに伝えてあげましょう。あなたの記憶にもとどめておいてね。あなたはわたしの手にキスしたけど、わたしは全然しなかったって。それを聞いたらあのひと、どんなに笑うかしら!」
「…このひとでなし、出て行って、」
「なんてはしたない言葉、あなたには似合わないわ、お嬢さま」
「出て行って、淫売!」
「ええ、淫売でもなんでも結構!」
僕は狂ったみたいに笑って、ミーチャのもとに忍んでいったカテリーナの所業を論い、そのあさましさを嘲って退場する。隣の部屋でカテリーナの苦し気な声が僕を蔑むのを聞く。最低の女、断頭台に上げて首をちょん切ってやりたい、恥知らずの淫売、…。
カットがかかって、監督が僕に駆け寄る。ぼんやりした僕の面前で監督は満面の笑みを浮かべて僕を抱きしめる。
「素晴らしかった、やはり私の目に狂いはなかった。リーヴェ君、見違えるようだったよ、君の芝居は…」
ぱちぱちと拍手の音がする。カメラの後ろにいる長身は、マルセルだろうか。
ちかちかしたライトに目を焼かれた僕はただされるがまま、監督の抱擁に身を委ねていた。




