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≪第七部≫ウンディーネは深更に満ちる ーカラマーゾフ編ー  作者: 咲佐きさ


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第十九話

 メイクを落として楽屋から出る。俺の今日の撮影は終わりだ。続きは明日、リーヴェとのシーンの撮影から開始する。明日の撮影の前の打ち合わせも兼ねて、彼を飲みに連れ出そうか。演技初心者のリーヴェは、俺の適当な助言もありがたがってくれて、砂漠で水を見つけた人みたいに俺の手に縋りついて、ひどく可愛らしい。今すぐ丸呑みにしてやりたいけど、まだ我慢だ。彼の心はまだセデュイールの傍にある。そこから引き離して、俺の方を向かせないと。

 …セデュイールとの共演は4年ぶりだ。作品数にしたら、5回目。デビューの時には今のリーヴェのように、俺の言葉に真摯に耳を傾けていたセデュイールは、一作ごとにみるみる成長を遂げ、今や押しも押されもせぬ人気俳優だ。正直あいつがここまでになるとは俺は想像もしていなかった。だから軽はずみで手を出すようなこともしたんだが、…まあそれは置いておこう。

 作品ごとに色を変え、役になりきる憑依型のやつの芝居には場を飲み込み動かす力があり、それは現場の共演者もスタッフもみな実感している。今回の芝居もまた、鬼気迫る勢いで、前回よりも着実に進化しているのを感じる。俺はいつの間にか、カメラの前で圧倒的な存在感を持つあいつを、見上げる立場になっていた。

 悔しい思いは勿論ある。俺よりはるか下にいたはずのあいつが、俺を追い抜いていったんだから。美貌も人気も、映画界では双肩を張ると言われている俺たちだが、その実力には今や歴然とした差があり、それをもどかしく思うのは役者として当然だ。

 …だから俺はリーヴェに近づいた。

 あいつの持ち物をちょろまかして、あいつの鼻を明かしてやろうと思ったからだ。

 リーヴェのことを知った今では、ライバルに打撃を与えるための道具だとは、とても思えなくなってしまったわけだが。


 楽屋にリーヴェの姿はなかった。彼を探してうろついていたら、庭でロケしている撮影クルーと出くわす。スタッフの群れを避けて軽口を叩きながら通り過ぎようとして、――俺は片隅で蹲るリーヴェを見つけた。


 俯いて、肩を抱くように両手を回したリーヴェの背が小刻みに震えている。何か異常なものを感じて片膝ついて覗き込むと、はっ、はっ、と断続的に漏れる吐息が聞こえる。顔色はひどく青褪め、涙を滲ませた瞳は俺を映しておらず、茫洋としている。過呼吸の典型的な症状だ。役者の間にはよく見かける。抑圧や緊張の多い職業だから、精神をやられるやつは少なからずいるんだ。だから、こういう時の対処法も、俺はよく心得ている。

 俺の登場にも反応しないリーヴェの前に屈みこむと、ちょいとリーヴェの鼻を摘まんで上向かせ、俺はそのまま、彼の唇を塞いだ。

 吐息を流し込むようにして、唇を合わせたまま、彼の茫然とした瞳を見つめて。

 どれだけ時間が経ったのか、やがてリーヴェの身体は弛緩して落ち着きを取り戻し、俺は唇を離してやる。

「もう平気かい? リーヴェ」

「…今の、何…」

「俺の治療法さ。今みたいな症状にはよく効くんだぜ」

「…誰にでもしてるのかい」

「誰にでもじゃない。俺の気に入った相手にだけね」

 ウインクすると唖然とした表情のリーヴェは脱力し、くたりと頭を落とす。

「ビックリした。何が何だかわかんなかった」

「おいおい、感謝の言葉が聞こえないぞ? 命の恩人に対してさ」

「…ありがと、君のおかげで助かった」

「どういたしまして。今日は飲みに行かないかい? 奢るよ、いくらでも飲んで構わないぜ。君、酒は好きなんだろう? セデュイールとじゃあなかなか飲めないだろう。あいつ下戸だし」

「あー…やめとくよ、今日は、そんな気分になれなくて…」

「セデュイールとは話せた?」

「……」

 こくりと頷いたまま、俯いたリーヴェは黙り込む。

 その瞳がまたゆらゆらと揺れているのが見えて、おそらくはうまくいかなかったのだろう対話を想像する。

 俺の付けてやったキスマークが、効力を発揮したのかもな。セデュイールのやつがどんな顔をしたのか、見られなかったのが残念だ。

「セデュイールは君を拒絶したの?」

「…そうじゃない。そうじゃないけど…」

「何があったか、聞かせてよ、君が嫌じゃないなら…とりあえずホテルに帰ろう」

「……」

 手を差し出すとぼんやりとリーヴェが見上げる。途方に暮れたような顔が可愛い。セデュイールも迂闊なやつだ。こんな状態のこの子を、放っておくなんて。

 まあ、やつの今日の撮影はまだ終わっていないので、生真面目なやつが仕事を放り出して邪魔しにくることはないだろう。

「お手をどうぞ、お姫様。エスコートしてさしあげますよ」

 おそるおそる載せられた手をぐいと引き、リーヴェの細腰を抱き寄せる。ぐたりと寄りかかってくる身体は冷え切っていて、氷でできた乙女のようだ。

 俺は見せつけるようにリーヴェの身体を引き寄せたまま、スタッフの間を闊歩する。ホテルまでの道中、彼が抵抗することはなかった。



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