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≪第七部≫ウンディーネは深更に満ちる ーカラマーゾフ編ー  作者: 咲佐きさ


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第十八話

 楽屋の前で、はあと深呼吸する。なんだか緊張してる。まだ胸がどきどきして、握りしめた手に汗が滲む。

 僕はセデュの楽屋の前に立ってる。今は休憩中で、僕の今日の出番は終わりだから、もう私服に着替えてる。

 初めて、板の上で見るセデュはとても眩しくて、きらきらしてて、僕が想像していたよりももっと、激しくて、悲しそうで、…咆哮する雄の狼って感じで、しょうじき、すっごく格好良かった。

 思い出すとまた頭の中がぐらぐらしてくる。なんだろう、カリスマ性? っていうのかな? セデュが登場した途端、皆彼に夢中になっちゃうっていうか、もう彼しか目に入れたくなくなるっていうか。あいつがこの業界で引っ張り凧なのもわかる。というか、初めてちゃんと理解できた。…セデュが音楽をやめてしまったのは残念だなあってずっと思っていたけれど、ああいうものを見せられたら、そりゃあ、こっちが天職なんだろうなあって気持ちにもなる。

 …それで、僕はいま、あいつに昨夜のことを質そうと思って、ここまで来た、わけなんだけど。

 セデュの演技に圧倒されて、なんだか意気込んでた思いがどっかにいっちゃったみたいだ。でも僕はセデュに伝えなきゃいけないことがめちゃくちゃあるので、呆けてばかりもいられない。

 僕はもう一回、深呼吸して、扉をノックする。楽屋はみんな便宜上、修道僧の部屋を割り当てられているので、鍵はかからない仕様になっている。ドアノブを回していきなり突撃してもいいんだけど、というか、いつもの僕とセデュなら確実にそうしてたんだけど、なんだか今それは躊躇われた。

 中からセデュの応答が聞こえて、僕はドアノブに手を掛ける。

「僕だよ、入ってもいい?」

「…ああ、」

 籠った感じのする声にまたドキマギしながら僕はドアノブを回して、扉を開く。

 カーテンのない窓に聖像が置いてあるのは僕の楽屋と同じだ。それからベッドと、文机、クローゼットがあるのは、僕のところと違うかな。

 休憩時間、フロックコートを脱いだだけであとは衣装姿のまま、文机に掛けていたセデュが立ちあがる。手元には台本がある。出番前のチェックをしていたんだろうか。真面目なやつだから…。

 先ほどの、カメラの前で見たセデュの光輝を思い出してしまって、なんだか彼が直視できない。緊張で喉がカラカラだ。久しぶり、のせいもあるけど、なんというか、僕とは違う世界のひとなんだって、改めて、思い知らされたというか…。

…だめだ、落ち着かないと。こんな調子じゃ会話にならないぞ。落ち着け僕、落ち着け…。

「…昨日のこと、なんだけど」

「…ああ」

「監督と、ど、どこに行ってた、の?」

「…飲みに」

「め、珍しいねえ! 君って、あんまり…というか、全然飲めないだろう? 監督もさ、ほんとは他の目的があったとかじゃないのお?」

「お前は何が聞きたいんだ」

「えあ、それは、その、…」

「…」

「…監督に、ナニかされちゃったんじゃないかなーとか…」

「…集まりには共演者も、スタッフも大勢参加していた。バロットもいた。そういったことはない」

「あ、そうなんだ…知らなかったなア…」

「…」

「えと、僕もね、なんか、噂になっちゃってるみたいだけど、監督とはなんにもなかったから! それだけは、言っておかないとって、思って…」

「…」

 セデュは僕を凝視したまま動かない。なんか、首のあたり? をじーっと見てる。何を言おうかとわたわた考えて、そうだ、マルセルの誤解を解かないとって、思いついた、そのときだ。

「マルセルには、目立つところにキスマークを付けないように、言った方が良い」

 ぽつりとセデュが言った。

 僕はぽかんとして、彼の目を見返して。

 なんだか虚ろに見えるその目の中に映る僕を見て。

 ばっと、慌てて首を抑えた。

「これ、これは、ちがうんだ、マルセルじゃなくて…」

「じゃあ誰に?」

「か、監督に、呼び出されたときに…」

「ついさっき、何もなかったと言わなかったか?」

「それ、それは、あの…」

「なぜ嘘を吐くんだ」

「――」

 嘘なんか吐いてない、って、すぐに言えたらよかったんだけど。マルセルと何もなかったのだって本当なのに、確定してる事実を確認するみたいなセデュの口調に、反論を抑え込まれてしまって。

 何より、淡々とそんなふうに聞くセデュが、…もう前みたいに、怒ってくれないセデュが、なんだか知らない人みたいで。

 僕はなんて勝手なんだろう。前のときは、僕のために乗り込んできてくれたセデュに腹を立てて、今は、僕に興味をなくしたみたいなセデュに、ひとりで傷ついて。

 ――セデュはもう、僕のことで、怒ってはくれないのか。

 僕を見ているようで見ていないような、濁った飴色の瞳を見つめて言葉を探すうち、 ガチャリと扉が開いて、小柄な黒髪の少年がひょっこり顔を出す。

「セデュイール様、次のシーンのことなんですけどお、監督が…あれルーシュお兄様、まだいたんですかあ?」

「あ、ロレンツォ君…」

「わー煙草のにおいすっごいですよおルーシュお兄様! 離れててもわかるくらい」

「え、あ…そう?」

「そうですよう。マルセル様のタバコのにおいと一緒ですねえ。それに、その服、昨日とおんなじですよねえ? もう、遊びまわるのはいいですけど、もう仕事は遅刻しないでくださいねー? …それで、セデュイール様あ、ここの場面のことでえ、演出をちょっと変えたいって監督が言い出してえ…」

「…ホフラコーワ夫人の屋敷のシーンか」

「そうなんですよお、それでえ…」

 ロレンツォ君が指差す台本に屈みこみ、二人は芝居の話を始める。完全に置き去りにされた僕は無言でセデュの楽屋を出る。

 ぱたんと後ろ手に扉を閉めて、しばらくふらふらと歩き、撮影現場を通りがかって、カメラのコードに躓いて、そしたらどうしてか、僕は立ち上がれなくなってしまって、埃っぽい隅っこに、膝を抱えて蹲る。

 先ほどの、セデュの言葉が、ぐらぐらする頭に何度も響き渡る。

 僕は嘘なんか吐いてない、監督ともマルセルとも、最後までしなかった。でも、嘘じゃあないけど、状況証拠から、とてもそれが信じられるようなものじゃないってこともわかる。

 …セデュならきっと僕を信じてくれるって、能天気に思い込んでいたけど、セデュだって人間なんだ。何度も傷つけられたら、疑いたくなるのもとうぜんだ。

 僕だってセデュを疑ったことがあった。嘘吐かれてるんじゃないかって思ったら、今までの言葉も全部嘘みたいに思えたことが――

 何を話しても手答えのないセデュの、虚ろな瞳を思い出す。もう僕のことで、怒ってくれないセデュは、もしかしたら、疲れちゃったのかな。僕に振り回されることに。

 軽はずみで短慮で、自分からトラブルに飛び込んでいくような僕に、精神が不安定で、自殺未遂を二回もしてて、頭のおかしい、セデュに依存しきってる僕に。

 僕の異常さに気づいちゃって、それで嫌気が差したのかな。

 ――どうしよう。僕がセデュに、行かないでって言える要素、ひとつもないじゃないか。

 身体の中がじくじく、膿んだみたいに痛い。空洞になった身体の中心が疼いて、今すぐ、セデュが欲しくてたまらない。この空洞を埋めてほしい。何も考えられないくらいに、めちゃくちゃに抱かれたい。

 セデュを傷つけておいて、こんなふうに思う僕はやっぱり異常者だ。セックス依存症の、ろくでもない変態だ。でも、今すぐ楽屋に引き返したって、セデュの隣には僕じゃない誰かがいて、セデュと、僕の知らない言葉で話していて、僕がそこに割り込むことはどうしたってできなくて――セデュは、僕といることで疲弊したセデュは、あの男の子といることで、癒されてるのかもしれなくて。

 なんの憂いもない太陽みたいな笑顔のあの子が、泥沼に囚われてるセデュのことを、引き摺り上げる絵が浮かぶ。あの子の屈託のない笑い声が、耳の奥で響いて、僕は耳を塞ぐ。もう何も聞きたくない、知りたくない、考えたくない。

 今すぐここから消え去りたい。

 どろどろしたものが僕を足先から頭のてっぺんまで覆って、僕は息ができない。

 ――呼吸が、できなくなってしまった。


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