第十七話
深刻そうな、青褪めた顔のセデュイールは俺を一瞥し、すぐに視線を逸らす。
やつの着たスーツからはゼン監督愛用の煙草の薫りが漂う。どうやら本当に、やつは一晩監督と一緒にいたようだ。
「ルーはここに来ているか」
とセデュイールは、ひどくかすれた声で聞く。
「いるけど、それが何?」
「…連れて帰る」
「そうは言っても、今眠ったばかりだからなア、お姫様は。起こすのは可哀想だぜ」
「……」
「お前は昨晩、監督と遊び歩いてたんだろう? リーヴェにまでちょっかい出すのはどうなんだ? 彼は芝居のことで相当参っていたみたいだぜ、お前は知らないだろう。俺がずっと相談相手になってやっていたんだ。彼は苦しんでるようだったよ。お前とのこともそうだけど」
「…私の?」
「いいかげん、彼を解放してやれよ。お前に囚われたままじゃ、彼は不自由なままだ。歪な関係だよ、お前らは。彼を苦しめるのがお前の本意じゃないんだろう?」
「……」
セデュイールは黙り込み、帰り道を見失った、迷子の子供のような顔で俺を見る。失ったものを、確かめようとするような瞳だ。ぱちぱちと瞬く長いまつ毛が黒く濡れている。俺の手に落ちてこなかったお前は、今、まるで断崖に立っているみたいにも見えるぜ。
ドアに寄りかかった俺はあいつの道を塞ぐように腕を伸ばしてドアの枠を抑え、あいつの視界を遮る。
離れてしまったお前と、リーヴェとの距離を思い知らせるように。
「今日は帰りな。彼は俺が、現場に連れてくから」
セデュイールはこういう場で、駄々をこねることも不平不満を漏らすこともない。そういうやつだ。我武者羅になって、君を奪い返そうとすることもない。それがいつものあいつだ。俺の知っているセデュイールだ。冷静で、尋常で、誰かがあいつのせいで泥沼にはまっても、顔色一つ変えない。
――だから、君のことであいつが怒るのは、本当に珍しかったんだ。
今朝のセデュイールはそれ以上廊下で無益な会話をつづけることはなく、無理矢理部屋に押し入ることもなかった。
バタンと面前で扉を閉めてやったから、いつあいつが去ったのかは知らない。
眠りの底にいる君はまだ、とうぶん起きそうになかった。
ゼン監督に促されたセデュが視線を落とし、ベッドから立ち上がる。差し伸べられた監督の手と指を絡め合わせ、そこに頬を寄せる。伏せられたままの目を上げるように監督のもう一方の手がセデュの顎をぐいと掴んで上向かせる。カメラに映る映像をなすすべなく凝視する僕と、顔を上げたセデュの挑むような目が、ばちりと合った。
がばりと起き上がったのはセデュの部屋によく似た部屋だ。僕に割り当てられた部屋より若干広い、スウィートルームだ。僕はそこのベッドに寝ていた、らしい。昨夜の記憶を辿っても、どこで意識を失ったのか定かじゃない。内心ドギマギしつつきょろきょろあたりを見回していたら、紙袋を抱えたマルセルが奥の部屋からやって来た。
「目が醒めたかい、お姫様。そろそろ起こそうと思っていたんだ」
「えと、ぼく、…?」
「買い出しに出たら君のマネージャーにせっつかれて大変だったよ。うまく言い包めておいたけどね。もう出ないと入りに間に合わないから、朝ごはんは移動中に頂こう」
「えっ、今何時!? やば、着替えてる時間ない!」
「ちょっとタバコくさいけど、まあそんな俳優はゴマンといるから大丈夫。もう出よう、役者はその身一つあればオッケーだからね」
「ちょっと待ってて、部屋から台本もってくる!」
「それなら俺のを使いなよ。もう全部覚えてるから。さ、行くよ」
ベッドサイドに置かれていた草臥れた台本を手に取ってなんでもないふうに僕に渡して、紙袋を抱えたマルセルは先に立って歩き出す。
昨夜、なんの成果も得られずジタバタしていただけの僕に一晩つきあってくれたマルセルになんとかお礼を言って、僕は彼の部屋を出た。
マルセルと一緒に現場に着くと、半泣きのマチウが駆け寄ってくる。
「ムッシュ・リーヴェ、すぐ準備してください。出番まであまり時間がありませんよ!」
「わかってるゴメン! じゃあマルセル、また後で!」
バタバタと走りながら移動して、楽屋に戻る時間もないから即衣裳部屋へ、と誘導しつつ、
「昨夜はどちらに言っていらしたんですかア。探したんですよオ」
と半泣きのままのマチウに聞かれる。
「ちょっと、マルセルと夜の街に…」
「夜遊びは大概にしてくださいよ! 仕事に障るようなら外出禁止を申し渡さねばなりませんからね!」
「ごめんごめん、もうしないからたぶん…」
「多分では困るんですが!?」
衣裳部屋に駆け込んでTシャツを脱ぎ捨て、衣装さんに手伝ってもらって僧服に着替える。慌てていてウッカリしていた僕はそのまま靴に足を突っ込み、足裏に突き刺さる痛みに飛び上がった。
裏返した靴の裏には画鋲が三個。…微妙に数が増えている。このままネズミ算式に増えて行ったら、最終日には僕の靴、針山みたいになってるんじゃないか?
「どうしたの? リーヴェ君…あらあ」
即席の鏡台の前で道具を整えていたメイクさんが憐れむような声を挙げる。
「リーヴェ君は新人さんだからねえ、よくあるのよね、こういういじめ」
ポーチから絆創膏を取りだし僕の足裏に貼ってくれながら、メイクさんが同情するように話す。業界の裏事情ってやつだ。やっぱり、どこの世界にもあるんだな。コンクールの前には僕もよく剃刀入りのファンレターとかもらったっけ…。
「あなたの起用に納得のいってない子か、もしかしたらヴィオレ君のファンの仕業かもね?」
「なんでマルセル?」
「あら、隠さなくてもいいのよお、うふふ」
メイクさんは口に手を当てひとしきり笑ってから、僕を鏡台の前に座らせ驚異の速さでメイクを仕上げた。
結局、僕はセデュと話すことのできないまま、カメラの前に立つことになっちまった。
昨夜、セデュと監督の間に何かあったのか、何もなかったのか、何もないことを信じたいけどあのドスケベ親父のことだから、セデュをホテルに連れ込んだりしたんじゃないかとか、夢で見た映像とかが頭の中をぐるぐるして、モヤモヤして、気持ち悪くなってくる。
場面はカラマーゾフの一族が勢ぞろいして紛糾してるところに、セデュ演じるミーチャが乱入するシーンだ。久しぶりに顔を合わせるセデュが、役を演じてる姿だなんて、なんだか不思議な感じがする。…アリョーシャとしては、ミーチャと初顔合わせの撮影になる。気まずい思いもひとまず忘れて、僕はセデュがやってくるのを板の上で待ち侘びる。
父フョードル役の役者さんの長広舌が終わって、マルセル演じるイワンが怒りを漲らせ、僕はおろおろそれを見守って――
そしてその瞬間が来た。
ガシャン、パリン、と隣の部屋で何かが落ちて割れる音が立て続けにして、絹を裂くような悲鳴が轟き、暴風雨を引き連れてきたみたいな狂乱の中で、バタンと音高く扉が開かれる。
「グルーシェニカ、グルーシェニカはどこにいる! 親父には渡さない、あいつは俺の女だ!!」
怒りを両目にギラギラと宿して、燃える火の玉みたいな男が怒鳴る。フロックコートをだらしなく肩にかけ、ボタンを3つほど開けて素肌を晒し、ぴったりしたパンタロンに黒のブーツを履いたセデュが登場した途端、びりびりと空気に緊張感が走って、鳥肌が立つ。板の上で、父親に掴みかかり、嫉妬をあからさまにして叫ぶ男に、視線が吸い寄せられる。彼を中心に、すべてが回っていく。
荒々しく、痛ましく、激しい彼は鮮やかなほどの存在感で、その場を完全に支配していた。




