第十二話
「…そんな顔もできるんだなあ、色男。いつもの澄まし顔よりよっぽどいいぜ」
「出ていけ。二度とここに踏み入るんじゃない」
「それはお前が決めることなのかい? …まあいいや、今日はこれで失礼するよ、お姫様。また明日」
マルセルは飄々と言って、ひとつ僕にウインクして、去っていった。
後には、僕と、セデュだけが残される。
セデュはなんだかすごく怒っている。こんなに怒っているのは、いつ以来かな、あの古城で、僕が知らないおじさんについていこうとしてたとき以来? いや、マルセルをあのおじさんと同一視するのは、あまりに失礼だろう。大体、共演者に向かってあんなふうに、断罪するみたいに言うのは、違うんじゃないか?
「なんであんなこと言ったのさ。マルセルは僕を心配してくれただけなのに」
「…あの男とは個人的に会うな。あいつは碌な男じゃない」
「なんで君が僕の交友関係にまで口を出すのさ。僕が君をそんなふうに、束縛したことあった? 君が、…誰と付き合おうが、いちゃつこうが、僕が邪魔したこと、あったかい?」
「…ルー、」
「誰と付き合うか、誰と話すかは、僕が決める。君が決めることじゃない…」
「お前はあいつと寝たのか」
「――、」
ひゅっと息が詰まって、何も言えずに僕はセデュを見上げる。
温度のない瞳が僕を見ている。いつもの熱を感じない、凪の海みたいな、失望とか諦めとかを通り越した、淡々とした眼差しで、ただ事実を確認するみたいにして、僕に尋ねる。
…信じられない。信じられない。信じられない。
なんでそんなふうに聞くんだ。僕のこと信じてないの? 君にとっての僕って、そんな、簡単な男だってこと? 誰にでも股を開くとでも思ってるの? 君じゃなくてもいいんだって、そんなふうに、思われてたってこと?
「…だったらどうだって言うのさ。君には関係ないじゃないか」
「ルー、私は、――」
「出て行ってよ。君の顔なんてもう見たくない!」
最後はもう、悲鳴みたいだった。断末魔の声ってやつにも似てたかもだ。
はあはあと肩で息をして、ぐらぐらマグマみたいに胸の底から湧いてくるものを、必死で抑えて。
僕に触れようと伸ばされるセデュの手をはねつけて、僕は客間から寝室へと飛び込んで、バタンと扉を閉める。
セデュが向こうの部屋で何か言っていたけど、僕は耳を塞いで寝台に突っ伏した。
涙がまた、後から後から湧いてくる。せっかく収まったと思ってたのに、またどろどろしたものが僕を飲み込む。
――セデュを失ったら、僕はもう、何を信じたらいいんだろう。
翌朝、僕を起こしたのは軽快なチャイムの音だ。ぐったりと泥のように眠っていた僕は液状から個体になった身体を起こす。のろのろと寝室を出て、ぼんやりしたまま扉を開けば、マルセルのいつもと変わらない笑顔があった。
「おはよう、リーヴェ君。昨日は大変だったね。この際、朝ごはんは外に食べに出ないか?」
僕は寝ぐせのついた頭のままでこくりと頷く。ここは知り合いが多すぎる。――セデュと顔を合わせたくもない。「ちょっと待ってて」と言いおいて、バスローブを脱ぎ捨てた僕はスーツケースから引っ張り出した蛍光カラーの柄のあるTシャツと黒のスラックス、黒のカーディガンを羽織って部屋の外に出た。
ホテルから出るまで、僕たちを留めるものは何もなかった。
「グルーシェニカはどうしてあんなふうな女になったと思う?」
甘く煮込んだリンゴのパイに齧りつきながらマルセルが問う。ウィーンには朝早くから開店しているカフェがたくさんあって、僕たちはオペラ座の裏にあるそのうちのひとつに席を占めている。
店内には、他のお客さんの姿もちらほら。読書していたり、新聞を読んでいたりする。朝早くから整然としていて、背筋を伸ばした楚々とした佇まいの街だ。それから早起きの街だなア、と思いながら僕はオムレツを口に運ぶ。ごくんと呑み込んで、少し考える。
「好きな人に捨てられたから、自棄になったとか?」
「そう、それなのにその相手に数年ぶりに呼び出されれば喜び勇んで会いに行く。一途なところもある女なんだ」
「ドミートリーや、その父親とのことは、遊びだった?」
「むしろ一種の自傷行為かな。彼女を囲っていた老人とのこともそうだろう。そうやって自分を傷つけて、なんでもないみたいな顔で嗤う女なんだ、グルーシェニカは」
「本人の意思とかかわりなく、男たちに群がられるのも、タイヘンだろうなア」
「キミにはそういう経験はない?」
「まあそれなりに。…生きてりゃいろんなことがあるさ」
「グルーシェニカは幸福だったと思うかい?」
「…何年も思い続けてきた男が自分を呼び出したのが、打算だったって失望して、自分を追いかけ続けてくれたミーチャの愛に気付いて、…それを信じられたから、その瞬間は、幸福だったんじゃないかな」
「第三部の、モークロエのシーンだね」
「僕、カラマーゾフであの場面が一番好きだ。それまで悪女然としてたグルーシェニカが、聖女みたいになって、ミーチャを受け入れるの。神聖な誓いを立てるみたいに…」
「娼婦を聖女と同一視するのは『罪と罰』のソーニャにも繋がるね。ドストエフスキーの真骨頂だ」
「主人公を驕りから救い出す穢れなき娼婦だね、信仰の篤い…」
「キミは神を信じてる?」
「無神論者ではないよ。神はいるだろうと思ってる。何もしてくれないけど」
「なるほど」
薫りのよいコーヒーに口を付け、ぼんやりと通りに目を遣る。よく晴れた朝に街路樹の緑が瑞々しい。大型犬を連れて散歩している人がいて、真っ白でフワフワの毛並みに見惚れていたら、マルセルが咳払いをひとつした。
「キミとセデュイールのことなんだけど」
「…」
ちらりと見返したマルセルは、僕の正面で畏まっている。ピンクのシャツに白いスーツと、美男子じゃないと許されないようなコーデの彼は、僕を真剣に見つめて、言葉を探しているようだ。
「…友達なんだ。子供の頃からの」
助け船を出すように言ってやると、大げさに頷いて、
「そうだったのかい。へええ。それは知らなかったな…」
と感嘆したように呟く。
「セデュイールのやつは異性愛者だろ? 昨夜あんなふうに取り乱していたのが、意外だったって言うか…幼馴染みか。それならまあわかるかな…」
「驚いただろう、彼があんなに怒るとこは僕も久々に見た」
「普段は冷静沈着だもんなア、あいつ」
「あれで結構、激情家なんだぜ。口も足癖も悪いし。普段きまじめな分、思い込むと一直線って感じで、もう、暴走特急みたいだし」
「そいつは知らなかった。それで、キミはそういうセデュイールに片思いしてるってわけか」
「――」
口に入れようとしていたフォークが空中でぴたりと止まる。時間が止まったみたいに。なんと答えたらいいかわからず困惑する僕を他所に、マルセルは一人合点している様子だ。
「あいつは恋多き男だからなア。キミはなかなか厳しい戦いに挑むことになるな。なにしろあの美貌だ、共演女優がまず放っておかない。離婚したと思ったら1年ですぐさま婚約、そいつもすぐに破談になって、噂だと今はハリウッドから熱愛している女優を引き抜いて近くに住まわせてるとか。いやあ、並べるととんでもないな。脱帽だよ全く」
「……ぼくはべつにかたおもいとかしてないから」
「あそう? 俺の勘違いかな?」
「やっぱり君の目は節穴だね」
「おかしいなア、俺の目は確かなはずなんだけど」
「節穴も節穴だ。向こう側が透けて見えそうだ」
「キミに参っちゃってるから、いつものセンサーがエラーを起こしているのかもしれないな」
「…そういう冗談はいいから」
オムレツの最後の一切れをごくりと飲み込み、コーヒーを呷って、レシートに伸ばした手を彼が遮る。
「ここは俺に奢らせてよ。誘ったのは俺だし。先輩の顔を立てると思ってさ」
「じゃあ、遠慮なく。ご馳走様でーす」
「ハハ、一切躊躇わないんだ。素直でいいねえ!」
マルセルは湿っぽいところは一切ない、太陽みたいにからから笑って、僕に手を差し伸べた。
「ではホテルに戻りましょうか、お姫様」
「…そういう冗談も、いらないから」




