第十一話
自分の部屋に戻った僕は服を乱暴に脱ぎ捨てて、シャワー室に籠った。浴槽の中でシャワーを浴びながら縮こまる。石鹸で擦りすぎた右手は赤くなってひりひりしてる。洗ったからって、嫌なものに触れた事実が、なかったことにはならないんだけど。
ひとりで浴槽で膝を抱えていると、いろんなことが頭に浮かぶ。碌でもない事ばっかり。たぶん監督は僕の過去を知っていて、だからグルーシェニカにキャスティングしたんだろう。…だから、あんなふうな、…酷い扱いをしても平気だって、思われたんだろう。
全部僕の自業自得だ。監督の部屋に行ったのも、お芝居なんてできないのにオファーを受けたのも、僕が昔遊びまくってたのも。全部全部僕のせい。身から出た錆ってやつ?
だから一丁前に、傷つくなんて馬鹿げてる。ぼろぼろ涙が止まらないのも、子供じみてて最悪だ。
…しばらくセデュには会えないな。どんな顔したらいいのかわかんないし。あいつを巻き込みたくないし。
たぶん監督はセデュにああいうことはしなかったんだろう。あいつはお育ちがよくて、家柄もよくて、強大な後ろ盾があって。――天涯孤独でろくでなしの僕とは、まるっきり違っているんだから。
…ターゲットになったのが僕でよかったって思おう。そうすれば少しは前向きになれるかも。汚泥の一つや二つ増えたところで、どうってことない。今更僕の身体が綺麗になれるわけもないんだし。生まれ変われるわけも、ないんだし。
ぼんやりとシャワーを止めて、浴槽から立ち上がり、バスローブを羽織っただけの姿でベッドに寝転がる。なんでもない、いつものことだ、って思ってたら、やっと涙が止まった。ぐうと腹が鳴る。そういえば夕食もまだだった。生きてる限り腹は減る。生理的な欲求はどうしようもない。誰が死んでも、どんなに絶望しても、死にたいって思っていたって。…でもでかけるのは億劫だな。ルームサービスでもとろうかな。
ホテルの案内でも確認しようかと起き上がったとき、部屋のチャイムが鳴った。
「やあ、リーヴェ君、夕食はもう摂った? いろいろ買ってきたんだけど、一緒にどうかな?」
扉の向こうに立っていたのはマルセルだ。スーパーの袋らしいものをぶら下げ、人懐っこい満面の笑顔を向けられ、僕は顔をごしごし擦ってから彼を部屋に通した。
「ライ麦パンと、ブルストと、シュニッツェルがあるよ。あとサラダとチーズと、プラムと、青りんご、どれから食べる?」
「プラムちょうだい。ちょうどお風呂上がりで、喉乾いてたんだア」
「はいはい、剥いて差し上げますよ、お姫様」
折り畳み式のナイフをポケットから出してぱちんと開き、洗面所でちょっと洗ってからマルセルは応接間のテーブルで、器用な手つきでプラムの皮を剝いてくれる。するすると濃い紫色の薄い皮が積みあがっていくのが面白い。
「お腹すいてたところだから、助かったよ。出かけるのも億劫でさ…」
「そうだろうなと思ってね。キミ、現場では何回もダメ出しされてたろう。あんなにキツく言わなくてもいいのになあ。たかが映画にさ」
「たかがって…君の職場だろう。その言い方はないんじゃない? プロとして」
「キミをいじめるほどの価値がある職場かなって思ってさ。ほら剥けたよ、食べて」
齧りついたプラムの果肉からじゅわりと染み出る甘い汁を飲み込む。身体に染み渡るみたいに美味しい。生き返るってこういう感じかも。ぽたぽた汁を垂らしながら不器用に食べる僕にマルセルは笑って、ハンカチで頬に着いた汁を拭いてくれる。面倒見のいいお兄さんって感じだ。セデュよりも、初動の距離が近くて、懐にするっと入り込んでくる。でも嫌な感じは全然しないので、僕は彼に甘える。
セデュの代わりみたいに扱うのは、彼にシツレイだから、セデュのことは頭の隅に追いやっておこう。これは浮気じゃない、よね? 親切にただ甘えているだけ、だし。
「なんで今回の脚本でアリョーシャは同性愛者なんだろうなあ。監督がゲイなのは有名な話だけど」
心底不思議そうに呟くマルセルに苦く笑って、僕はなんでもないように嘯く。こうしていると少しずつ、いつもの自分に戻ってこれてる感じがする。
「僕にアテ書きしたって言っていたから、そのせいかもね」
「キミはゲイなの? あ、嫌なら言わなくていいけど」
「男の人に誘われることは多いかな。僕は普通なら、女の子の方が好きだけど」
「普通なら? 例外もあるってこと?」
「…まあそれはね、秘密」
適当に誤魔化すと、マルセルは納得のいっていないような顔で頷く。
「ふーん。まあいいけどね。それなら俺にもチャンスがあるってことだし」
「君のほうこそ、ゲイだったりするの?」
「俺は美しいものが好きなだけさ。男でも女でも、老いも若きも関係なく、ね」
「へー…じゃあセデュのことも好き?」
ちょっとドキッとして、長い付き合いだと言うセデュのことを切りだすと、マルセルは鷹揚に笑う。
「勿論好きさ。あいつには嫌われちゃってるけど」
「何かあったのかい?」
「まあ昔いろいろね。それより今はキミの話だ」
「僕の?」
「監督に声を掛けられていただろう。…大丈夫だったかなって、思ってさ」
僕を覗き込むようにしてマルセルは言う。気遣わし気な声に喉が詰まって何も言えない僕を、じっと見る。
「……」
「嫌なら言わなくてもいいよ。…ただ、監督は気に入った俳優はなんとしてでも手に入れたがると言うか…結構がっついてるところがあるんだ。また今度誘われたら、俺も一緒についてくから」
「…君も、誘われたこと、ある?」
「昔ね。俺が美少年だった頃」
「…嫌な思いしたの」
「だからキミにはそんな思い、してほしくないって思うわけさ。キミは見たところ、なんというか、初心そうだし」
「僕がウブ? 君の目って節穴だねえ! おっかしい…」
「そうかな。あんまり間違っているとは思わないけど…キミも一本どう?」
ポケットから煙草の箱を取り出し、中の一本に火を点けながら彼が聞く。僕は首を横に振ってそれを丁重に断る。
「タバコはやめたんだ、何年か前に。…僕の経験人数知ったら君多分ひっくり返るぜ」
「……」
マルセルは笑顔のまま黙り込んで、煙草をくわえたまま、僕の目をじっと見つめる。真昼の空みたいな薄青い瞳が綺麗だ。この人も、芸能界の汚いところをたくさん見てきたのだろうに、こんなに澄んだ目ができるんだ。役者だからなのか、それともこの人が、特別だからなのか。
わからないけど、ある種達観しているようなその姿勢には、少し、憧れる。
「アリョーシャは、作中で唯一ドミートリーに無償の愛を捧げられているよね。一方グルーシェニカのほうは、ドミートリーから必死に求められている、いわばアガペーとエロスの具現化みたいに感じるね」
「監督が一人二役を指定したのも、それが理由だったり?」
訥々と語りだすマルセルにボクは尋ねる。役者さんの演技論を聞けるいい機会かもしれないって思って。ド素人の僕には、まだ勉強しなきゃいけないことがたくさんあるから、こういう機会は逃さずにいたい。周りにあんまり迷惑もかけたくないし。
「今回の映画はドミートリーが主軸だから、それも十分考えられる」
「ちゃんと理由があったのかア。ただ監督がすけべなだけかとおもってた。僕にすけべな格好させたいだけかと…」
「すけべ?」
「グルーシェニカとドミートリーのラブシーンがあるだろ。濃厚なヤツ。原作にはないのにさ…」
「ああ、あれね。まあ映画には中だるみ防止のためのラブシーンが挿入されるのはままあることだから…」
「映画の裏事情とか、知りたくなかったかも…」
「キミももう業界人なんだ、そこは諦めてもらわないとね」
煙草を消したマルセルはライ麦パンにブルストとレタスを挟んだ即席のサンドイッチを齧りながら笑う。誰かと話をしているとさっきまでのモヤモヤがどこかに吹っ飛んだみたいで、僕も気楽に笑えている。緊張も重圧も感じない。それもマルセルが、僕を気遣ってくれているからなんだろう。いい奴だな。業界人って言ったって、そんな、悪い人ばっかりじゃないんだ。少し、ほっとする。さっきまで、地獄にいるみたいだったから、余計に。
充分にあった食事も男二人だとあっという間に平らげてしまって、瓶に入った水を呷りながら後片付けする。
「酒はないの?」
と聞くと、
「いける口なら次回持ってくるよ」
とマルセルはウインクする。
がさがさごみを纏めていたらまたチャイムが鳴ったので、後片付けはマルセルにお願いして僕は扉に向かう。
何の気なしに呑気な感じで扉を開ければ、そこにはセデュがいた。
「あ、…」
「……」
私服のグレースーツのセデュはひどく深刻そうな顔をして、僕をまじまじと見ている。何か、信じられないものを見るような目だ。…そういえば僕、ずっとバスローブ姿だった。だらしないって怒られるのかな。でも、そういう雰囲気でも、ないような…?
「ごみここに捨てちゃって大丈夫かい?」
部屋の中からマルセルの声がして、さっと表情をなくしたセデュはぐいと扉を大きく空けて身体を滑り込ませる。そのまま僕には目もくれずズカズカと部屋に進んで、立ち上がったマルセルの面前で立ち止まり、セデュは、
「ここから出ていけ」
と、怒りを押し殺したような声で、言った。




