その12
「なに? なんだって? もういちど言ってくれるかい?」
「『光は、あらゆるルートを同時に通る』」
「なんだい? そりゃ?」
「おととい話したはなし、おぼえてる?」
「おととい?」
「光は、一番はやく進めるルートを進んでるっていうの」
「ああ、なんかそんなこと言ってたね――ごめん。お砂糖とってくれるかい?」
「うん?――ああ、はい、どうぞ」
古い家の台所には大きな木のテーブルがあって、その上には山ほどの卵と小麦粉が載っていた。バニラやジンジャー、ウイスキーやその他各種の調味料、それにクルミやレーズン、色んな果物の缶と一緒に。
「はい、ありがとう」老婆は応え、そして考えた。バターと砂糖のはいったボウルを、カチャカチャカチャカチャかき混ぜながら、「うん? でもそれっておかしくないかい?」
「なにが?」彼は訊き返した。老婆は続けた。
「だって光は、一番はやく通れる道を通るんだろ?」と、「だったら他の道を通ってるひまなんかないじゃないか」
「え?」と彼もすこし考える。たしかに。いまの言い方だと勘ちがいされるな。
「そっか、言い方がまずかったかも。おととい話した『光は一番はやく進めるルートを進む』ってのは、『光はあらゆるルートを同時に進む』ってことなんだよ。それで僕らは、『その中でもっとも通る確率が高いルート』を、『光の道』として見ているんだよ」
「は?」とここで老婆は手を止めた。先ほどよりもずっと考え、「ごめん、シンちゃん、まったく分からないよ。もっとこのおばあさんにも分かるように説明してくれないと」
テーブルから離れた場所には石油ストーブが置いてあって、そこではお湯が沸かされていた。老婆のココアや彼のコーヒーを淹れるためのものだ。
「あんまり飲み過ぎないようにね」老婆が言った。「よる、ねむれなくなるからね」
彼女にとって彼はまだまだ小さな男の子なのだろう、彼女の服装はあの頃からほとんど変わっていなかった。年中着ているコットンのワンピースに虹色のセーターを重ね、下には厚いスウェットとふかふかの靴下。なにかどこかのマスコットキャラのように見えなくもないが、その繊細な顔には、それでも深い皺と年月が刻まれていた。彼は応えた。
「はいはい」と彼女から離れていた年月をかなしく想い出しながら、「これくらいなら大丈夫だよ」
「ならいいけどね」止めていた手を老婆は動かし始めた。カチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャ。
とろけるようなバニラとチクッとするようなジンジャーの香りに彼は、例の看護師を想い出しそうになったが、それはすぐに意識の向こうに追いやることにした。
「よければ持って行きな」老婆が言った。「友だちになりたいんだろ?」
「え?」彼は訊き返した。もちろん後ろのセリフは聴こえなかったことにして、「いいよ、ここでサッちゃんと食べるよ」
ピーッ。
ストーブのヤカンが鳴った。彼はそれをすこしずらした。老婆は彼の背中を見ていたが、それ以上は踏み込まないことにした――それで?
「え?」彼は訊き返した。
「ひかりのお話」老婆は言った。「結局あたしには、チンプンカンプンなままなんだけどね」
「え? あ、そうか、そうだったね」
それから彼は、とても小さな世界では位置やエネルギーは常に細かく震え揺らぎ続けていること、光が実は点でもあり波でもあること、山型の波と谷型の波はそれぞれ互いに打ち消し合うこと、逆に近しい山型の波たちはそれぞれ互いに強め合うこと等などを、可能な限り簡潔に、出来れば老婆にも分かって欲しいと丁寧に説明して行った。が、
「ああ、もういい、分かった、分かった」と、とうとう根負けして老婆は言った。「あたしにはとうてい理解出来そうもない話だってのは、ようく分かった」そうして、「それはさておき、ケーキを並べるの手伝っておくれよ」
いつの間にやらそこには、四十二個のフルーツケーキが焼き上がっていた。これらは彼女が、彼女の友人や知人や、一度会っただけの親切な郵便配達人なんかに配るために焼いたものだった。
「ウィスキーかけるからさ、かかったやつから適当に並べてっておくれ」
彼はまだまだ続きを話したそうな様子だったが、ウィスキーを持った老婆の「これ以上はやめとくれ」という顔に口をとじると、彼女の指示にしたがいケーキを並べにかかった。ありとあらゆる机の上や、足りないようなら棚のうえ、あるいは窓台のところなんかに。窓の外では木枯らしが吹いていて、手袋を忘れた彼が、ひとり森のなかへとはいって行くのが見えた。
「でもさ、シンちゃん」とつぜん老婆が言った。
「なに? サッちゃん」彼は訊き返した。
「そっちのほうがいいかもね。消されるのはちょっとかわいそうだけど」
「え?」
「『光の道』はひとつだけじゃない。ありとあらゆる道があるし、あった。それは本当のことなんだよね?」
「え? あ、うん。量子力学、経路積分の考え方にしたが――」
「『すべてのお話は、すべてホントに起きたこと、すべてホントに起きること。』」
「え?」
「あたしの故郷に伝わるおとぎ話さ」
「おとぎ話?」
「忘れないでね、シンちゃん」
「なにを? サッちゃん」
「あんたは頭はいいけどさ、いつもまっすぐな、一本の、自分だけの道を通ろうとするけどさ、あんたが消した、見捨てた、見逃した道だってさ、ホントはあったお話なんだろ? だったらそれは、決して、無駄なお話なんかじゃなかったんじゃないかな?」
そうして――?
*
そうして突然、いまのお話は終わった。彼が突然、意識をとり戻したからである。
そこは現実だった。彼の現実だった。
彼の左手には、先ほど父の首を絞めたときの感触が、しっかりと残っていた。
サカエの顔も、例の看護師の顔も彼は忘れていた。
何故なら彼の身体には、ひとつの道を行くための近しい波が、多くの波が、揃って彼を強めようとしていたから。この世界を終わらせようと、この世界を含めたあらゆる世界を終わらせようと、彼を押し上げようとしていたから。彼は苦笑した。
「『ひかり』ね」とその名の少女を想い出しながら、「僕に必要なのは、あいつだった」
(続く)




