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その11

「あら?」と不意を突かれたような声で、若くほそい看護師は訊いた。「おかえりですか?」


「ええ、はい」彼は答えた。ちょっと周囲をうかがって、「話の途中で急に寝始めてしまいまして――林さんは?」太った中年の看護師の行方を訊いた。


「え?」若くほそく看護師は返した。「ええ、はい、ちょっと売店に」


 彼女の話では、中年の看護師は小腹が空いたと言ってはここに彼女をひとり残してパンやお菓子を買いに行くことがよくあるのだそうだった。


「林になにか御用でも?」若くほそい看護師は訊いた。


「あ、いえ、そういうわけでは」彼は答えた。ふたたび周囲をうかがって、「じつはちょっと、木田さんにお願いごとが」


「私にですか?」


「ええ、はい」彼は答えた。いかにも女性が好みそうな、照れた微笑を見せながら、「じつはですね――」


 彼は、彼女の好意に気付いていたし、彼女は彼女で、いまの世界ではめずらしいほどの単純――失礼。純朴なこころの持ち主でもあったので、このとき、あるいはもう一時間、いや一週間、いや、もっと以前、彼・灰原神人が樫山昭仁と出会うまえ、彼が能力のことを知るより以前、彼らのどちらか一方が、もう一方のことを、もっと知ろうとしていれば、知ろうと勇気を持っていれば――もちろんそれは、男女のどうのこうである必要はなく、まったくの、ただの友情。いや、ただの知り合いへの関心や親切でよかった。なぜなら彼らが欲していたのは、ただの友人、いや、自分のことを知り気にかけてくれる誰かであったのだから――今日この日の惨劇や、明日以降のこの地の悲劇は、事前に止められたのかも知れなかった。が、結局そうはならなかった。何故なら、


「たまには他人に親切にしようよ、楽しいよ」


 と言ったがばかりにひとりのバカが、高い高い木の上に釘付けにされてからまだ二千年ほどしか経っていなかったし、そんな二千年ごときで賢くなれるほどホモ・サピエンスはサピエンス(賢明)ではなかったからである。ふとった中年の看護師がもどって来た。


「あら?」彼女は訊いた。不思議そうな顔で。ほそくて若い看護師に、「どしたの? ボーッとして」


「え?」ほそくて若い看護師は答えた。「あ、いえ、別に……」とまるで砂糖漬けのベルベットから目覚めたかのような声で、「灰原さんです」


「は?」ふとった中年の看護師は訊き返した。「灰原さん?」


「ええ、はい、灰原さん」ほそくて若い看護師は続けた。「灰原さんの息子さん、もうお帰りになられました」


「あら、いつもよりはやかったわね」


「なんだか話の途中でお父さまがお眠りになられたそうで――」


 そうして、それから彼女は、ほそくて若い看護師は、灰原の、『パープル・マン』が乗せられた言葉どおりに、自分も彼の父親の様子を見に行ったが、父親はぐっすりと、言ってみればひとり幸福そうに眠っていたことを中年の看護師に伝え、また、その後も彼女は、彼らの勤務が終わるまで、中年の看護師が彼の個室には入らない、近寄らないようこっそり注意し、且つ、自身が中に入っても、そこではけっしてなにも見ないよう動くことになった。


「どうだい? すこしは話せたかい?」中年の看護師は訊いた。


「え?」若い看護師は答えた。すこし嬉しそうに、「ええ、はい、すこしだけですけど……」


 くり返しになるが、彼女は彼に、興味と関心と好意を抱いていたし、彼女は、いまの世界ではめずらしいほどに単純で素朴な性格をしてもいた。そのため彼女は、ただただただただ単純に、彼のことを知り、彼と友人になりたかっただけなのだが、それはあまりに遅きに失した望みでもあった。何故なら――、


     *


「なさけもない、なさけもない、なさけもない」


 と、そのすこし前、彼女が友だちになりたがっていたその男は、実の父親から、次のような言葉たちを突き付けられていたからである。


「お前など、産ませんかったらよかった」


 彼は続けた。まるで積年の恨みつらみが堰を切ってあふれ出したかのように、


「お前の母親のせいでわしは」とか、

「お前のせいでどれだけの金が無駄になったか」とか、

「お前さえおらんかったら、わしの人生はもっと」とか、


 書き出せば切りがなく、また、こんなところには書けない、書いてはいけない言葉を、いくつも、いくつも、いくつも、いくつも、いくつも、彼は言ったのである。目の前のろくでなしが、目の前の彼の分身が、いますぐ、はじめから、まるでそもそも存在しなかったかのように、消えて行って、失くなってしまって欲しい。そう願いながら、祈りながら、自分自身を呪いながら、彼は、彼のむすこに言ったのである。


 そうして、そんな父親のことばに灰原神人は、いつかの少年のように、壁をつくり、灰に閉じこもり、そのままそこに、ゆっくり、たしかに、沈みこんで行こうとした。


 そう。


 彼は彼で知っていたのである。自分が誰からも、少なくとも実の父親と母親からは、望まれずに生まれて来た存在であることを。


 生きるためには、生きのこるためには、生きるための、生きていてもよい理由を、自らの手で、獲得し続けなければならない存在であることを。


 彼は――あるいは別の宇宙の彼らたちは――つぶやいた、いっせいに――怒りを、


『怒りを謳え、女神よ。』


 それから彼は、彼らは、ゆっくり、たしかに、灰のなかから立ち上がると、ベッドの上の父親をのぞき込み、その老いさらばえた灰褐色のほそい首に手を当てた――そうだね、


「そうだね、父さん」それはある意味、彼なりの、愛を与えられなかった息子なりの、父への愛情だったのかも知れない。「また、逃げ出すところだったよ」


 その手に、つよく、力を入れた。


「こんなことじゃあ、とても父さんの息子だなんて言えないよな」


 父のうめき声が外まで漏れそうだったので、彼の枕を彼の口もとに当てた。


「見ていてよ、父さん」


 父の魂がこの地を去ろうとするのが分かった。


「きっと父さんの、息子にふさわしい男になってみせるよ」


 彼は、彼らは続けた。それはある種の祈りであり決意であり、人間賛歌ですらあった。


「これから起こること、それはきっと、僕にしか出来ないことさ」


 消えて行く父の呼吸を見上げながら彼は、彼らは、彼らの魂はつぶやいた――かくて、


『かくて、炎を時は来たり。』



(続く)

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