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その10

 さて。


 それではここで、同じ空気中にある二つの点A・Bを想像して頂きたい。そうして、それが出来たら次には、この点Aから点Bへと向かう光が、『最も短い距離で』移動するためのルートを想像して頂きたい。出来ただろうか? するとそれはきっと、これら二つの点を結ぶ直線になっているかと想うが――如何だろうか?


 うん。


 それでは、合っていれば、次に今度は、この点Aから点Bへと向かう光が、『最も短い時間で』移動するためのルートを想像して頂きたい。出来ただろうか?


 うん。


 するとこれも、これら二つの点を結ぶ直線になるかと想うが――如何だろうか?


 うん。


 と、流石にここまでは、まったく文系の私にも当然のこととして理解出来る。距離が短くなればなるほど、そこを移動するのに要する時間も短くなるのは当然のことだからだ。


 すこし話を進めよう。


 それでは次に、例えば今度は、点Aは引き続き空中に置いたまま、点Bだけを水中に入れた状態を考えて頂きたい。すると今度も、点Aから点Bへと向かう光が、『最も短い距離で』移動するためのルートは、これら二点を結ぶ直線であり、かつ、『最も短い時間で』移動するためのルートも、これら二点を結ぶ直線――ではないことに気づかれただろうか?


 うん。


 書き間違いや読み間違いではないことを示す意味で、後半部分を再度書いておく。「(点Aから点Bへと向かう光が)『最も短い時間で』移動するためのルートも、これら二点を結ぶ直線――ではない。」


 そう。


 この状態で、点Aから点Bへと向かう光が、『最も短い時間で』移動するためには、これら光は、①水面に達するまでは先ほどの直線よりいくぶん入射角が広くなるある点を目指して進み、②その後、水中に入ると角度を変え、点Bへ向けて真っすぐ進む。というルートを取らなければならない。


 どうしてこんなことになるのか?


 それは、光は、水中では空気中よりも遅く進むからであり、その分空気中にいる時間を長く、水中にいる時間を短くした方が、距離は長くなるが移動に要する時間は短くなるからである。


 そう。


 そうして、仮にもっと入射角を広げた場合、その全長は長くなり過ぎるので、結局、移動に要する時間は長くなるわけである。つまり、『最も短い時間で』光が移動するためのルートは、そのため自ずと決まってくるわけである。と、ここまではよろしいだろうか?


 よろしければ、ここから先は、さらに少々注意深くお読み頂きたいのだが――、


 いま見て来た『最も短い時間で』光が移動するためのルート、つまりはどんな角度で水面まで進み、どんな角度で点Bまで進むかは、光が水と空気、それぞれの中をどれ位の速さで進むかで決まる訳だが、その角度、つまりルートは、それら空気と水の屈折率の違いによって決まるわけである。


 うん。


 ちょっと分かりにくくなったので、もっとザクッと言い換えると、これはつまりは、「光は常に、『最も短い時間で』進めるルートを進む」ということになる。


 そう。


 これがいわゆる『フェルマーの最少時間の原理』と言われる原理である。であるが、ここで疑問と言うか、不思議な感覚に襲われる点がひとつあるのだが、お気づきだろうか?


 そう。


 その疑問と言うか不思議な点は、いま見た光が、まるで、あらかじめ、そこを通るに先んじて、『最も短い時間で進めるルートを知っている』かのように見える点である。なぜなら彼らは、水面に到達するより前に、水と空気の屈折率の差を理解し把握し、ルートを決めているように見えるからである。


 では、なぜ、光は、『最も短い時間で進めるルートを知っている』のか? この点について、敢えて量子力学的な視点から回答を試みるとするならば、それは、『光はあらゆるルートを同時に通っているから』と云うことになる。


 そうして――、


     *


「あらゆるルートを同時に通る?」


 とそうして灰原神人はつぶやいた。どうして自分がそんなことをつぶやいたのかも知らずに。彼はくり返した。彼の耳にはまだ、目の前の老い衰えた父親の言葉が、


「お前など、産ませんかったらよかった」


 と言った父の言葉が残っていたが、それでも、まるで、ちがう世界の別の自分が、その残響を打ち消そうとでもするかのように、


「あらゆるルートを同時に通る?」


 と彼はつぶやき、そうして、それと同時に彼は、だれか他の人物、ここにはいない他の誰かに、この病室での、あまりに悲惨であまりにも滑稽な一部始終を見られているという奇妙だが確かな感触を覚えると、その何者かから彼の全てを隠そうとした。


 そうして――、


     *


 そう。そうしてそのため、丁度壁の真ん中に貼られた四つのモニター、それらが接する中央のすき間から、ほそく白い煙はあがった。ゆっくり、吐き出すように、渦を巻きながら。


 天台烏山は少しおどろき、しかし全体としてはまったく落ち着いた様子で、部屋の電気を点けると、先ずは壁一面のモニターを、それから部屋の中央に置かれた三台のコンピューターを確認した。こちらは、煙こそあげてはいないものの、完全に動きを止めているようだった。彼は訊いた。


「大丈夫かね?」と、横でうずくまるパウラ・スティーブンスに、「いったいなにが? いったいなにを見たんだね、パウラくん」


 彼女が見たもの聞いたもの、それらはひとつになる前に、ひとつの言葉になる前に、当の本人の無意識によって、隠され移されくらまされていた。が、それらひとつになる前の彼の、彼らの断片、星くず、想いの欠けらを、敢えて彼女の知っている言語に置きかえてみると、それは、怒りであり、苦しみであり、憎しみであり、取り戻せない濡れた靴であり、なみだや悲しみ、誰も見ることのない花束、呪われた新月、どこかに消えた手づくりの凧であり、あまりにも無数の断片であり、果てしのない炎であったが、しかし、それらすべてを覆い、付きまとっている感覚、感触、手ざわりならば、ひとつの言葉で言えそうだった。彼女はこたえた。答えになっているかは分からなかったが、


「不安?」と、無限の海へと堕ちて行く小さな男の子を想い出しながら、「あのひと一体、なにをあんなに怯えているの?」



(続く)

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