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その9

 黒い海と青い空。

 きらめく太陽と遠く聞こえるはしゃぎ声。


 彼と父親との記憶はそんなところからはじまる。


 それから――、


 ドン。


 と背中を押される感覚。

 目と耳と鼻に流れこむ潮の香りと音と色。


 彼は海に落とされていた。

 もちろん落としたのは彼の父親である。


 そう。


 彼の父親は、『泳ぐか溺れるか』方式で息子に泳ぎを教えるような男であった。

 が、もちろん、そのことを子ども時代の灰原神人は知らなかった。


 まさかそんな方法があるとは想ってもいなかったし、そもそも父親とは初めて会ったと言ってもいいくらいの間柄でしかなかったからである。


 海の水はからく、すぐに息は苦しく、目は痛くなり、彼はギュッと目を閉じた。

 なかば麻痺状態であった。


 きらめく太陽は水の上へと遠ざかり、どこかのはしゃぎ声もいまは笑い声へと変わっていた。父は言った。


「どうした神人」と。

「俺の息子なら泳いでみせろ」と。


 彼は、父の声にしたがい手足を動かすが、しかし、はじめての海でまさか浮き上がれようはずもなかった。


 どこかの笑い声はいまや嘲りの声へと変わっていた。小さな舌打ち入りの。


 無理やりにでも目を開いたが、きらめく太陽は彼を盲目にでもしようとするかのようだった。


 血走った忘れな草が父の不在を彼に告げ、その父親は彼にこういう。


「どうした神人」と。

「強い男になってみせろ」と。


 無限の海はひろく、ふかく、くらく、彼の足はいつまでもそこに浮かんでいた。水底などはあろうはずもなかった。


 笑いもあざけりも全てが消え去り、美しい音楽があたりをつつみ込んだ。光に目も眩み、彼は意識をうしなった。


 彼を救いあげたのは、それを見ていた三十代のラッシュガードの男だった。

 彼はその朝、世界終末戦争の脚本を仕上げたばかりだった。


 灰原神人の音楽は鳴り止まず、彼は理不尽を感じるより先に、恐怖と憐れみを彼の父親に覚えていた。


 そうして――、


     *


「やあ、父さん」とそうして、それからいくつか時は過ぎ、死に損ないの息子は訊いた。「どうだい? 調子は」


 問題の父親もいまでは、悪性の癌か、それとも悪徳の報いかは知らないが、すっかり老いぼれ、ベッドの上の死に損ないへと変わっていた。彼は苦しげに唾を飲み込むと、左の目から涙を流した。が、それもあくまで機械的な人体反応でしかなかった。怒りや悲しみや哀れみでこの男が涙を流すはずがないことは、その血を継いだ灰原本人がなにより分かっていた。父親からの返事がないことに彼は、安堵しつつも意を決し、本日ここに来たわけを語りはじめた。


「じつは」と言っても分からぬだろうが、それでも。


 それでも彼は語った。彼が視た未来の話を。彼が世界を終わらせる未来の話を。ちからを求めた代償あるいは見返りに、全てを消し去る未来の話を。この未来を求めるべきか消すべきか。そんな惑いと逡巡を、彼は語ったのである。すると、


「あー」と突然、ベッドの上から声がした。


「え?」と当然、ベッドの横で彼は訊いた。「なんですか? 父さん? なんて言ったんですか?」


 ふたたび彼は唾を飲んだが、今度は涙は流さなかった。代わりに、その病み衰えた肉体を、その全身を、小さく小さく震わせながら、


「なさけもない、なさけもない、なさけもない」


 ささやくようにそうつぶやいた。怒りにまかせ、ありったけの力を、ふるい起こしながら、


「お前など、産ませんかったらよかった」


 そうして――、


     *


 そうしてそこは不思議な夜だった。


 星の下、路の上。

 正確に言うなら境界線のその真下。


 そこより先には満天の星、そこより後ろには小さな赤い月が上っていた。


 ビジ、ビジジジジ、バジ。

 ビジ、ビジジジジ、バジ。

 ビジ、ジッジジジジジ、ジジ。


 青のデッキバンからはミスターのレンチ音が聞こえていた。彼は言った。境界線の向こう側、星空の下の悪魔に向かって、


「オーケー。三人とも連れて行って問題なさそうだ」とバンの中から降りながら、「と言うか、戸柱くんの衰弱がひどいな。食事……は無理そうだから、先ずは経口補水液から、それも拒絶しそうなら即席の点滴装置でも作るよ」


 それから彼は、境界線を越えると悪魔に近づき、


「ただし、さっきも言ったとおり」ささやくように確かめた。「いま家にいるメンバーとは離しておくように」


 と、バンに乗る者たち――戸柱恵祐、左武文雄、祝部優太――に聞かれぬように注意しながら、


「それほど?」悪魔が訊き返した。


「衰弱はそのせいさ」ミスターは答えた。「あのほそい身体で必死に爆発を抑えている。ものすごい精神力だ」


 と恵祐をほめてから、それでも、


「それでも、だからこそ、『あれ』を間違ってまひろくんがコピーしたらどうなるか分からない」


「ふむ」悪魔はうなずいた。「父親の方は?」


「大丈夫だとは想うけどね」ミスターは答えた。「それでも念のため。記憶はなくても身体が反応することはあるから」


「ふむ」ふたたび悪魔はうなずいた。「おかしなことを話しても?」


「なんだい?」


「もちろん私は山岸の家の悪魔ですがね」と遠目に優太を一瞥してから。


「うん?」


「あの男、ひかりさまによく似てますな」


 そうして――、


     *


 そうして、おかしなことは他にも、と言うか最近はおかしなことばかりだが、それでも、彼女の姿を認めたとき富士夫は、息を止めては半歩下がって、手にしたファイルを床に落とした。


 ホテルの廊下はうす暗く、彼はひとりで、窓の外には小さな月が上っていた。もちろん、そこに星空はなかったが。


 彼女は杖をつき、すこし光って、廊下の先から彼を見詰めていた。無言で。非難すると言うよりは、彼の力と意図が読めないという様子で。すると、


「私を説得に来られたのでしょう?」富士夫の方から彼女に訊いた。祖母・咲子の表情の意味をとらえ間違ったのである。「しかし私は、天台さんの仕事を引き継ぎますよ」


 先にも一度くり返したし、これはまったく蛇足かも知れないが、それでもある意味補足の意味で、ここでも敢えてくり返しておくと、山岸富士夫という男は、無口で、不愛想で、偏屈そうな見た目をしていて、しかもそれを自ら補足・フォロー・言い訳をするような男ではなかった。が、にも関わらず彼は、それでも一貫して、よき友人、よき社会人、よき夫で父親、そうしてなにより、よき兄であろうとし続けて来たし、そんな彼の想いと態度は、こんな世界、あるいは物語の中でも、これまで変わることはなかったし、それはきっと、この世界、あるいはこの物語が終わるまで、きっと、変わることはないだろう――ですよね? お兄さん?――彼は続けた。


「彼の、天台さんの仕事は私にしか引き継げません」とその時すでに、祖母の姿はなかったが、「そうしてそれは、未来の、山岸の家の未来のためにもなるはずです」


 一瞬、窓の向こうを、満天の星が埋め尽くし、また戻り、それから彼は、ひとりに戻った。床に落としたファイルを拾った。



(続く)

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