その5
「あいつの次のターゲットを予測して先回りするつもりでしょ?」
とヤスコが言って、当のミスターもまったく同じことを考えていたころ、しかし問題の灰原神人は、そんなターゲットのことなど考えてもいなかった。何故なら彼は、極度の不安と緊張と自己嫌悪の中にあったから。彼は、“あの男”に会うときはいつでも、同様の気持ちにさせられてばかりだったから。
*
「あの、すみません」と言って彼は声をかけた。ほそく若い方ではなく、ふとった中年の看護師に、「記入表、書きましたよ」
何故なら、ほそく若い方は、彼に若干の興味と、異性としての好意を持っているのがばればれだったからである。
「はいはいはい」中年の看護師は応えた。記入表を受け取り確かめ、「体温は?」
「書いてるとおりですよ」彼は答えた。はにかむ笑顔を見せながら。
「一応ですよ」ふとった看護師も答えた。彼に合わせてこちらも笑顔で、「体温は?」
「36.4度。平熱です」
「その他症状は? 咳やくしゃみや身体がだるい等々など」
「ありません。健康そのもの」
「本当?」ふとった看護師は言った。心から彼を心配するように、「なんだか疲れてるようにも見えるわよ、灰原さん」
「本当ですよ」男は答えた。更に笑顔で、更に心を隠して、「仕事がすこし、忙しいだけです」
「ふーん」看護師は続けた。「同居されている方がコロナやインフルエンザに罹ったり――」
「していません」男は答えた。彼女の言葉を遮るように、「って言うか、同居人なんていないって何度言えば分かってもらえるんですか」
ほそく若い方がこちらを見ていることに気づき、後半部分は声を抑えた。
「ふーん」ふとった看護師は続けた。「灰原さんモテそうなのに」
「全然ですよ、全然」男・灰原神人は答えた。年相応の、青年らしいふるまいで、「僕みたいな――」と言いかけたが、それは咄嗟にしまい込んだ。
「はいはいはいはい」看護師はわらった。事前確認表にチェックをいれて、「マスク、ちゃんと上まであげて下さい」口全体をおおうジェスチャーをした。
「あ、すみません」男は応えてマスクを上げた。
「それじゃあ――木田さん」と、ふとった看護師は、ほそく若い看護師に声をかけた。「灰原さんをお父さまのお部屋にご案内して」
そうして、ひき続き、灰原神人は、極度の不安と緊張と自己嫌悪の中にいた。何故なら彼は、実の父親に会うときはいつでも、同様の気持ちにさせられてばかりだったから。子どもの頃から。捨てた息子を呼び戻してはまた捨てるような、そんなことをくり返していたあの男と会うときには、いつでも。
*
「今日はすこしご機嫌がよろしいんですよ」ほそく若い看護師は言った。変に明るい病院の廊下を、南に向かって歩きながら、「きっと息子さんが来るのが分かったんでしょうね」
「はあ」灰原神人は答えた。彼女のあとを、まるで素足で熱い砂のうえを歩くみたいに歩きながら、「そんなことはないと想いますが……」
彼の答えに彼女は一瞬こちらを向くと、
「でも、本当にお父さま想いなんですね」と続けて軽くほほ笑んだ。
灰原神人は、この緩和ケア病棟に入院している父親のもとに頻繁――とは流石に言えないが、それでも定期的に見舞いに来ていた。
彼の父親は悪性のがんを患い永くはないと言われていたが、それでもしぶとく生き残り、積極的な治療が困難と判断されこちらの病棟へ移される頃には、彼以外の見舞い客はほとんどいなくなっていた。と言うか灰原自身、弁護士からの助言と忠告が無ければ、彼ら同様、いやそれ以上に、父親との距離は取っておきたかったのだが。
「灰原さん、息子さんが来てくれましたよ」ほそく若い看護師は言った。大きな声で。
父親の耳はとおく、目はかすれ、死神も、天使も悪魔も看護師も、見分けが付かなかったかったからである。
「え? なに? なんですか?」看護師は続けた。彼の顔に頭を近づけた。
彼は声もすっかり枯れていたので、その言葉を聴くためには、砂のようにひからびた唇のそばまで耳を近づけなければならなかったからである。
「はいはい、分かってますよ」看護師は答えた。彼の肩に軽く触れ、「ふたりっきりがいいんですよね、息子さんと」
それから彼女は、二・三事務的な会話を灰原と交わすと、なにかあればすぐ呼ぶようにと言い残して病室を去って行った。彼女が消えるのに合わせるように、父親は目を息子の方に向けた。見かたによれば、彼はなにか非常に重要なことを息子に伝えようとしているようにも見えたが、父親が何を言いたいのか、息子には皆目見当も付かなかった。
「やあ、父さん」彼は言った。何からはじめてよいのか分からないので取り敢えず、「どうだい? 調子は」
*
厨房を横切るとき剥きかけのジャガイモの山が見え、彼は一瞬、そちらに意識を奪われた。
「雑な仕事してやがる」
と、ついつい料理人としての自分が頭をもたげて来たからである。かたちを見きわめ、感触を確かめ、適切な角度と速度で芽をとり皮をむく。どうすれば一番美味しく食べられるかを考える。そう言った時間からずいぶん長く遠ざかっていたからである。であるが、
「ペトロ」とここでマリサは言う。そんな彼の気持ちを知りながら、「止まっちゃだめ。見つかったら困るわ」
ここは、天台烏山が持つホテルのひとつで、以前彼女が山岸富士夫と会ったふたつのホテルとはまた違う、別のホテルであった。
「ひょっとしてあの人、あの子のおじいさんじゃないの?」
そう言った郵便配達人は、しかしその後、彼らの甥と老いた禿鷹(おそらく天台烏山)が向かった先をほぼほぼ正確に指さし、しかもその指した道の先では、ホワイト・シェパードを連れた老婆や折りたたみ式電動バイクを抱えた青年、それに花のように子をあやす母親などが、まるで巧妙に仕込まれた舞台装置のごとく、彼らを、甥と禿鷹の行き先へと導くのであった。そうして、
「あそこよ、あの扉」
と、きっとアーサーとおない年くらいだろう、しろい夏服に身を包んだ少女が、彼らをこのホテルへはいるよう促したのだった。
「その子ならきっと、あの扉の向こうにいるわよ」と。
(続く)




