その3
こんなことを書くと不快感を持たれる女性の方もいるかも知れないが、妻のマリサに子どもが出来ないと分かったとき、医師から自分の方には問題がないと言われたとき、ペトロ・コスタは、彼女と別れ、他の女性との間に子を成そうかと考えたことがあった。
なぜなら、その頃の彼はまだ若く、魅力的で、彼が子どもを欲しがっていたことは、妻のマリサもよく知っていたからである。彼女のこころの優しさは、きっとそれを許容してくれるだろう、そう彼は考えたからである。
が、もちろん、彼にそんなことは出来なかった。
なぜなら彼は彼女を愛していたし、彼女以外の女性など考えられないと、彼は改めて気付いたからである。
「ああ、神さま」彼は想った。ベッドに横たわる彼女の肩に目をやりながら、「この道はどこへと向かうのですか?」
そこで、電話が鳴った。
それは、マリサの妹、エリザベッタ・ウォーカーの交通事故死を報せる電話だった。
そうしてこちらも、こんなことを書くと嫌悪感を抱く方もいるかも知れないが、妻の妹夫婦が事故で亡くなったとき、彼らが幼いアーサー・ウォーカーをひとり残して旅立ったとき、ペトロ・コスタは、これは神が与えてくれたチャンス、あるいは彼の望みを聞き入れてくれた証しなのではないかと考えた。
なぜなら彼は、それ以前にも、その甥には何度か会ったことがあったからであるし、気が合いそうな、利発そうな子どもだと想っていたからであるし、また甥には、この地にマリサ以外の身寄りがおらず、さらには彼、ペトロ・コスタがまず欲しがっていたのは、男の子どもであったからである。
が、もちろん、そんな考えを彼はすぐに捨てた。
なぜなら、ひとり取り残され病院のベンチに座る甥の背中はふるえ、おびえ、小さく、その背中を抱きしめる妻のすがたがあまりにも美しく見えたからである。
「ああ、神さま」彼は想った。自分の罪を数えながら、「彼らと一緒なら、わたしは牢であろうと死であろうと、覚悟は出来ております」
もちろんこの想い、願いは、例の天台への借金騒ぎで一度挫折しかけるのだが、それでも彼は戻って来たし、逃亡中も、この地に戻って来てからも、このときの誓いが彼を支え続けていることに変わりはなかったのであるが。
そう。
彼は妻を愛していたし、もちろん甥も愛していたし、更には、いま困難な状況にある妻の姉、彼女の中にいるもう一人の女性、オフェリア・モンタルトのことすらもどうにか受け入れようと覚悟を決めているところであった――が、ここで彼はつぶやいた。
「アーサーはどうした?」
*
消えた甥を捜すうち、ペトロとマリサのコスタ夫妻は、不思議な感覚にとらわれることになった。ペトロが言った。
「変だな、ここでもだ」と、とあるファミリーレストランの入り口で、「アーサーを見たって店員はいたが、その子、俺たちも一緒だったって言うんだよ」
近所の知り合いからコンビニの店員、バスの運転手から公園の掃除係に至るまで、甥を捜すふたりをまるで導くかのように、彼らが警察に駆け込むのをさえぎるかのように、会う人会う人、声をかけた者たち皆が、彼らに、甥の痕跡、星の欠けらのようなものを教えてくれたのである。ただし、決定的な証拠もなければ、具体的な行き先が示されるわけでもなかったし、また、先ほどのウェイトレスのように、
「でも、おふたりも一緒でしたよね?」
と皆がみな、彼または彼女の顔を見つめることになるわけだが。そうしてついに、
「うん。この子なら見たよ」と、ひとりの郵便配達人が言った。「今朝がたね。おじいさんと一緒だったよ」
彼はいま、噴水に近いベンチに座り休憩を取っているところだった。
「なんだか妙にかしこまって、真剣なはなしをしている感じだった」
それから彼は、ペトロとマリサを交互に見ると、その噴水のふちに座っていた甥と老人の様子を詳しく話してくれたのだが、不意に、
「帽子と日傘をしてたから顔はよく分からなかったけどね」と老人の顔を想い出す段になってようやく、「肩を落として、なんて言うかあれは、『老いたる賢明なハゲタ……あれ?」
と、その時には気付かなかった違和感、不思議に気付くことになる。ふたたび、ペトロとマリサの顔を交互に見てから、
「ひょっとしてあの人、あの子のおじいさんじゃないの?」
彼らと問題の老人の間に血縁関係がないこと、人種からして違うことは、ひと目見れば分かるはずなのに、いまの今まで、彼はそれに気付かないでいたのである。
そうして――、
*
天台烏山あるいは天台烏薬と呼ばれる人物の外貌容姿について問われれば、それはまるでジャン・コクトーとアンドレ・ジッド、あるいは、日本で言えば、正宗白鳥と澁澤龍彦のような人々を同時に想い起こさせるような人物であった、と答えることになる。
彼は道徳を説き、誠実さを愛し、想像力を否定すると同時に、あまりにも豊かな想像力と、それに由来する不誠実さでもって、そんな自分と、この狂った世界を正確に理解し、同情し、愛してもいた。彼は言った。
「アーサー、こちらはパウラ、パウラ・スティーブンスくんだ」と、歌うように笑うように。それから、「パウラ、こちらはアーサー、アーサー・ウォーカーくんだ」
その部屋はひろく、清潔で、床も壁も輝くように白く、ニュークラシックな照明と、十八世紀ヨーロッパ風の調度、それにパウラが望んだ本やおもちゃが、あちらこちらと置かれていた。烏山は続けた。
「どうした? さあ、あいさつをして」
が、彼らは黙ったままだった。
パウラ・スティーブンス。灰原神人に両親と幼い弟を奪われた九才の少女は、あの惨劇の場で左武文雄に助けられ、しばらく病院にいたのだが、その後、いまはもういない例の巨漢弁護士の手引きで、天台烏山の関係者に引き取られていた。
「さあさあ、恥ずかしがらないで」
更に烏山は続けた。が、彼らの沈黙の理由はそこにはなかった。ようやく彼もそれに気付いた。
「ああ、そうか、驚いているんだね」と。
そう。
彼らはただただ驚いていた。目の前の相手の姿かたちに。
なぜなら彼らは、背丈も同じなら手足の長さや顔の大きさ、そのバランスまでもほとんど――この年齢の男女の性差分しかないほどほとんど――違いがなかったからである。
と言うか、それはまるで、互いに、鏡に写った自分を見ているかのような感覚であった。烏山が言った。
「ま、驚くのも無理はないがね」微笑みながら、「実は君たち姉弟は、こちらに来るまで、同じひとりの人間だったんだよ」
(続く)




