その2
「山岸のおばあさん?」左武文雄は訊いた。ここでも時間は前後して、「署長がそこに行けと?」
「以前、協力してくれたらしい」右京海都は答えた。彼と同じベンチの、反対の端に座って、「詳しいことは俺も知らんが、そこならきっとかくまってくれるそうだ」
左武は現在、捕まっていた天台グループのビルから、同じくその地下に監禁されていた戸柱恵祐と逃げ出し、また、そんな彼らに協力してくれることになった祝部ひかりの“お父さん”、優太と逃亡先を探しているところであった。自身のアパートはもちろん、職場である石神井東警察署や、同僚の右京、署長の小張の関係先にもきっと、天台たちの監視の目はあるだろう。そこで、以前書いた方法(モールス式信号)で彼らに助けを求めたわけだが――、
「信用出来るのか?」続けて左武が訊いた。
「詳しい話は知らんがな」肩をすくめて右京は答えた。「署長はいやに自身あり気だったよ」(注1)
それから彼は、横目でちらりと左武を見ると、
「変装しろって署長の指示だが――」と続け、ついつい小さく吹きだした。「なんだよお前、その格好は」
と言うわけで。
彼らはいま、いつもの石神井公園にいた。三宝字池のベンチにすわり、ハトにエサなどやりながら。
もちろん公園からは、野鳥保護や園内環境維持のため、鳥類等へのエサやりは控えるようアナウンスされてはいるが、鳥類は鳥類で(特にハト)、こっそり待ち合わせをする警察署員と情報屋、あるいは内調・DIHのような情報機関の面々からしょっちゅうエサを貰っているので、控えるどころか、その手のオーラを持った人間がベンチに座ると、例え彼らがどんなに変装していたとしても、クルッポ、クルッポ、目ざとく集まりエサを要求してくるのであった。(ちなみにエサは、池のほとりの売店で密かに販売されている)
「祝部さんに借りたんだよ」左武はこたえた。ムスッとした声で、「似合わねえのは分かってるよ」
彼は現在、いつものひげ面&ヤクザファッションではなく、すっきりすべすべお肌顔にパッツパツの白のワイシャツ&背広姿でここに来ていた。ご丁寧にクラーク・ケントみたいなメガネすらかけて――が、まあ、ハトたちにはバレバレだったわけだが。
「ふん」と右京は笑い、むんずとつかんだハトのエサをそのまま遠くへほうり投げた。「ま、でも、元気そうでなによりだよ」
こちらはこちらで、休日のお父さんよろしく、まるでこれから釣りにでも行くような、ラッシュガードにトレッキングパンツ、それから変な色の帽子と偏向サングラスを掛けていた。エサを追ってハトの一団が移動し、右京は左武を抱き寄せたい衝動に駆られた。が、それではわざわざ変装した意味も、離れてすわっている意味もない。パンパンパンパン、手を叩いて立ち上がった。彼は続けた。
「住所はいま言った通りだが、入り組んだ場所にあるそうだし、人目も避けなくちゃあいけない。先ずはどこかで落ち合って、そこから連れて行ってもらうかたちになるそうだ」
「そうか、了解」左武は応えた。「わざわざすまんな」
「礼なら署長に言え」右京が言った。「あの人も、かなり心配してたからな」
「ああ、よろしく言っといてくれ」
そうして右京は歩き出したが、すぐに、
「また、連絡するよ」と言って立ち止まった。「死ぬなよ、相棒」
「ああ」左武は応えた。そっぽを向いて、「おまえこそな、相棒」
彼らが互いを相棒と呼んだのは、これが最初で最後のことであった。
そうして――、
*
クゥオォォウゥオゥ。
クゥオォゥヲゥオッ。
クゥゥオォォゥウヲッ。
そう。そうしてそれは、まひろもミスターも、あるいはそれを発している灰原本人もはじめて聴く音であった。
クゥオォォウゥオゥ。
クゥオォゥヲゥオッ。
クゥゥオォォゥウヲッ。
が、ただひとりミスターは、これによく似た音――それはつまり、クジラたちの愛の呼び声のことだが――なら聴いたことはあった。彼は叫んだ。
「ダメだッ! まひろくんッ!」
クジラの聴覚はたいへん発達しており、いまよりずっと昔には、何百キロも離れた場所、地球の正反対の地点からでも、群れと群れとが交信することも出来た。ミスターが聴いたのはその頃の彼らの呼び声、愛の歌であった。彼は続けた。
「ここは引くよ! 逃げないと!」
が、しかし現代では、人間たちが使う船のソナーやエンジン音、産業活動が生み出す水中ノイズに人工的な超音波で海はいっぱい。彼らの歌はひどい妨害を受けていた。まひろが応えた。
「でもッ! ミスターさんッ! 石橋さんは?!」
そのため彼ら、クジラの中には、騒音を避けて生息範囲を変えるものや、歌そのものを止めるもの、あるいは、無駄と知りつつ、いずれは海の底へと消える、そんな歌をうたい続けているものもあるという。ふたたびミスターは叫んだ。
「くっそ!」と手もとのレンチを確認しつつ、「なんなんだよッ! この音はッ!」
そうして今回、灰原が発したこの攻撃、未来の預言から覚めた彼が咄嗟に発したこの攻撃は、ミスターの簡易タイムバブルはもちろん、まひろの『壁』すらすり抜ける不思議な波長を持っており、また、どこかなにかのクジラの歌、いずれ消え去る愛の歌、そんなものにもよく似ていた。
「下がって!」まひろが叫んだ。ふたたび『壁』を出しながら、彼と灰原の間に立って、「はやく! 石橋さんを!」
がしかし、そこで彼女は見付けてしまった。事務所の壁に付いた赤い模様を。その下に横たわる血まみれの男の死体を。
「ああ」灰原が応えた。ミスターの代わりに、「『預言者』なら死んだよ」
(続く)
(注1)
樫山泰士製作の前作『SHEEP:ヤスコ先生の恋人』を読まれている読者のための補足。
ここで左武&右京コンビは、問題の『花盛りの家』を、まるで今回はじめて知ったかのような顔をして話しているが、あちらの作品を読まれた方ならご記憶のとおり、彼らもまた、この約一年ほど前に、一度あの花盛りの家を訪れ、しばらくそこで過ごしてもいる。
が、ではなぜ、その時の記憶が、マルッと彼らの中から抜け落ちているのかと言うと、ひとつは、あちらの作品で起きたある奇跡の副作用であり、またひとつは、例の赤毛が記憶改変した人たちの中に、彼らならびに彼らの上司、小張千秋も含まれていたからである。(小張はその後、また別の事件で、あそこの魔女と悪魔に関わる機会があり、そこで改めて知り合いになった)
そうしてさらに、ここで彼らが、『山岸のおばあさん』と『山岸富士夫』のつながりに何故だか想いが至らないのも、右のような事情の影響・副作用であった。




