その19
「うにゃ?」
と誰かが彼女の頬をなめ、そのザラッとした触感に、彼女は目をさました。それは風変わりな顔のメス猫だった。
「にゃご?」猫が訊いた。「なにゃ?」
しかし彼女はそれには答えず、代わりに、布団の上に起き上がると、彼女の頭を軽くなでた。電気は消えており、そのため部屋はうす暗かったが、障子越しの月のひかりでなんだか夢の続きを見ているようだった。夢は爆発――いや、重なり続ける白いひかりが世界を包もうとしているところで終わっていた。
「にゃ?」ふたたび猫が訊いた。
「うん?」こんどは彼女も答えた。「ごめんね、大丈夫よ」
すると猫は、しばらく彼女を見上げていたが、いろいろ理解したのだろう、そっぽを向いてあくびをするとひと言、
「ふーにゃ、ふぇにゃふにゃふぇにゃ」
とだけ言い残し、そのまま何処かへ去ってしまった。まるで、「心配して損した」とでも言いたげなうしろ姿で。
「ごめんね」ふたたび彼女は言った。つぶやくように、「でも、大丈夫だから」
猫が消え、庭の方からは男たちの話し合う声が聞こえた。秘密の話でもしているのだろうか、周囲を気にするひそひそ声だったが、特徴のある話し方から、それがこの家の悪魔と赤毛の宇宙人であることが分かった。夢で会ったもう一人の彼を想い出し、彼女はすこし、なんだかすこし、不思議な気分になった。
それから今度は、これも夢で会ったもう一人の自分を想い出すと彼女は、ようやく隣を見ることが出来た。そこには彼女の友人がいた。彼女はいまだ、眠りのなかにあった。何だか鼻が変な感じになった。猫は、彼女の涙を心配し、現れるはずのない時間と空間に現れたのであった。
「エマちゃん……」と、声に出してみて彼女は、どれほど自分がこの友人に助けられて来たのかを、どれほど彼女に支えられて来たのかを、彼女の、その不思議なまでの友情とともに、愛情とともに、改めて想い出していた。それは、夢で会ったもう一人の自分が、すでに失くし、また、もう二度と失くしたくはない、そう求めていたものであった。彼女は彼女にこう言った――あなたは、
「あなたはけっして、こうはならないでね」
*
「『爆発』が起きます」
そうミスターがつぶやいた時、彼にはもちろん作戦もなければ逃げ出す算段もなく、正直これから何が起こるのかすらもよく分かっていなかった。なぜなら、預言者は既におらず、あらゆる時空の“くんにゃらがり”と、いまある現実の圧倒的な現実感のおかげで、タイムトラベラーが見た未来などに未来としての価値などほとんどなくなっていたから。が、もちろん、その圧倒的な現実感、切迫感のおかげで、流石の彼でも、これだけは断言出来た。『爆発』が起きる。そうして、
「以前のものより強大で、絶望的な『爆発』が」
「あれは?」とここでまひろが訊いた。困惑した様子で、「『壁』……? ですか……?」
なぜなら彼女、こちらの宇宙の山岸まひろは、『窓』を見たことがなかったから。こちらの宇宙のひかりに会ったことがなかったから。
ビッ、ジジジジジジジ。
ミスターのレンチが鳴り、彼は答えた。
「いえ、『壁』ではありません」と、「詳しく説明している時間はありませんが――」
あれは『窓』と呼ばれる現象で、この『窓』は多元宇宙をつなぐものであり、宇宙同士の間をさえぎる『壁』の中や間に自然発生的に生じるものであること、そうして、
ビジ、ビジジジ、バジ。
ビジ、ビジジジジジ、バジッ!
ビジ、ジジジジジジジジジジジジ、
ジジジジジジジジジジジジ――バジッ!!
「っつ」
と彼のレンチがオーバーロードするほどに、どうやらこれらは、いま、ある一ヶ所――灰原神人の体内――で、指数関数的、等比級数的に増え続けており、これがこのまま続くなら、あらゆる多元宇宙が、その熱や情報、重力が、灰原神人を依り代として、この場に侵入、まずはこちらの、その後たがいの宇宙へ侵入、壊し合うだろう、とミスターは答えたのであった。
「『壁』に取り込むのは?」まひろが訊いた。
「それはダメです」ミスターは答えた。まったく間を置かず、「先ほども説明したとおり――」
『窓』は『壁』の中や間に発生しそこに通り道を付けるものであり、あれらがまひろの『壁』の中で増え続けた場合、そこに修復不可能な傷、裂け目を作る可能性が高く、
「それはイコール『壁』の崩壊を意味し」それが他の『壁』の崩壊、ひいては多元宇宙全体の崩壊を引き起こしかねない。「――では、どうするか?」
灰原を倒す、あるいは殺すだけでは駄目だろう。
すでに状況は、所謂『チェイン・リアクション』に入っており、時間の巻き戻しも考えたが、それをするには状況の進展が速すぎるし近すぎる。もろい時間のフィルムにこちらも傷や裂け目、あるいは焼け焦げを作ってしまっては、この宇宙自体が危ない。
「あの子はどうやって?」ふたたびまひろが訊いた。床に倒れるひかりの遺体を見ながら、「どうやって“あれ”の操作を?」
「無意識の恐怖」ミスターは答えた。「操作ではなく抑制。おそらく『窓の外』を見たのでしょう。その恐怖が彼女に『窓』を閉じさせ続けていた。もし開いていたのなら、私や貴女が気付いているはずです」
「あいつにその怖さはない?」みたびまひろが訊いた。
「力を手に入れたよろこび――」とミスターは答えかけ、その口を閉じた。しばし考え、それでもいやいや首をふり、
「いえ、確かに彼は、歓喜に酔いしれ、気が触れています。無限に広がる『窓の外』にさわり集められるのなら、それらが崩壊しても構わない、そう感じているのでしょう」
「意識を壊せば?」とここで突然、今度は朱色の魔女――こちらの宇宙の佐倉八千代――が訊いた。「彼の意識を崩壊、ゼロになったところを山岸さんが能力をコピー、『窓』を操作、抑え込むのは?」
「意識を?」ミスターはふり返った。まるで「たしかに」とでも続けそうな声だったが、すぐにそのことの危険性に気付き、「いえ、それは駄目です、佐倉さん」
確かに。彼女の精神感応能力を使えば、灰原の意識の底まで潜り込んで崩壊、あるいは、機能不全にすることは出来るだろう。しかし、
「彼の中には何十人分もの能力・記憶が積み重ねられています」遠隔からでは彼そのものの意識にたどり着くことは出来ず、「彼に直接触れなければならないのでは?」
いま灰原は狂気に忘我、歓喜と共にあらゆる能力を開放させていた。雨や嵐や幾つもの嘆きとともに漆黒の炎を身にまとい、首や腕には蛇にも似た波や稲妻、吹雪などが重なり固まり巻き付いていた。しかも、
「『窓』は増え続け、彼を取り囲んでいます」とミスターは続ける。その光はまるで千や万のナイフにも似て、「少しでもあれに触れれば、貴女の身体はきっと何処か別の時空たちへと弾き飛ばされ引き裂かれるでしょう」
また、仮にあいつに近づけたとしても――、
「“また”狂気に飲み込まれるかも知れない?」とふたたび彼女は訊く。ミスターの長広舌をとがめ切るように。彼女はほほ笑んでいた。彼を安心させようとして。ずっと昔の彼女みたいに、「大丈夫よ、ミスターさん」
『おお友よ!
このような音ではない!
我々はもっと心地よい!
もっと喜びにあふれる!
そんな歌を!
歌おうではないか!』
灰原の歌、いや祈りは続いていた。
もう、間違いはなかった。
彼はこの世界を、
この世界そのものを、
このかたちのまま愛したまま、
このかたちそのものを抱きしめたまま、
いっそ彼らとともに消滅してしまいたい。
そう、感じていたのである。
『ひとりの友の友となる、
大きな成功を勝ち得た者。
こころやさしき妻を得た者。
君らはこの歌に声を合わせよ。』
「私が彼を止めます」それは――陳腐な言葉を許して頂けるなら――死を賭した彼女の祈りであった。「未来をお願いします」
『そう!
地上にただ一人だけでも!
こころ分かち合う魂があると言える者!
きみらも歓呼せよ!
そう!
そしてそれが得られなかった者!
きみらはこの輪から立ち去るがよい!』
そう。
そうして彼女は飛び出して行った。まひろやミスターの制止を振り切り、もちろんひとりで。二度と会えないと諦めていた友人に、別れの挨拶も告げずに。代わりに彼女に、過去の、別の宇宙の彼女に向かって――あなたはけっして、
「あなたはけっして、こうはならないでね」
『諸人よ、ひざまずいたか?
世界よ、創造主を予感するか?
星空の彼方に、神を求めよ!
星々のうえに、必ず神は住みたもう!』
*
「おや?」とつぶやき悪魔は部屋に入って来た。「ようやく起きられましたな」
しかし、これへの返事はなかった。何故なら彼らは、いま、部屋の真ん中で、ただただ抱き合っていたから。涙は流していなかったが、それでもエマは、ふたりの八千代を親しく想い、八千代もエマと、彼女が失くした彼女のことを考えていた。悪魔は、例の猫の痕跡でも感じたのか、しばし周囲に目を凝らしていたが首をひねるとついにひと言、
「ふむ」とつぶやきふたたび訊ねた。「如何でしたかな? あちらの未来は?」
(続く)




