その10
深夜、優太から伝えられたとおりの手順で、次の町へ移る段取りを終えてから清水朱央は、ふたり用の寝室へと入った。妙に明るいので、常夜灯でも点いているのかと想ったが、それは外からの月の灯り、カーテン越しの月のひかりだった。
「ひかりちゃん?」
あまりの美しさに彼女に声を掛けようとしたが、すぐにそれを止めた。ひかりはベッドの上に横たわり、窓の方を向いていた。きっと眠り込んでいるか、さもなければ月を見ているのだろう。
ブブッ。
スマートフォンが鳴った。きっと“あの人”が到着したのだろう。玄関の鍵は開けておいた。
「朱央?」
ひかりがこちらを向いた。眠っていたのか月を見ていたのか、その瞳からは判断出来なかった。
「うん?」彼はほほ笑み、彼女に訊いた。「ごめんね、起こしちゃった?」
「うん?」彼女はこたえず、あごの辺りを軽く掻いた。「はやく寝なさい。明日もはやいんでしょ」
それから彼女は、ふたたび窓の方を向いた。それは一幅の絵画のようだった。
清水朱央にとって、この数年間は、困難な数年間であるとともに幸福な数年間でもあった。
住んでいた町を離れ、身を隠し、見知らぬ土地を転々とし、厳しい仕事や考えたことのない苦労も経験したが、それでも彼のそばには常に愛する少女――いや、もう“女性”と言ってよいだろう――がいてくれた。寄り添い、手を取り、支え合って生きて来た。たとえ土地を変えるたびに、彼女の記憶が少しずつ改竄されていたとしても。
カチャ。
寝室のドアが開き彼はそちらをふり返った。そこには“あの人”が立っていた。
「深山さん」彼はつぶやいた。
「ごめんね、朱央くん」深山千島は応えた。「すこし出ていてくれる」
ひかりの痕跡、逃走経路を隠すためにも、次の町で彼女が違和感なく暮らすためにも、彼女の記憶はその都度改竄しておく必要があった。
「あ、でも、僕なら平気ですから」と彼はつぶやき部屋に残ろうとした。が、
「私が平気じゃないのよ」と突き放し頼み込むような口調で彼女は言った。このやり取りも何回目だろうか、「お願い。ふたりきりにして」
そうして、こんなふたりのやり取りを、不思議な、まるで夢でも見ているかのような表情で、ひかりは眺めていたのだが、深山が彼女に近づいて、朱央が彼女から離れていることに気づくと彼女は、
「朱央……? 深山……? さん……?」とつぶやきそれから、「え? ちょっ、ちょっと待ってよ、朱央」
と転がり落ちるようにベッドをおりると、彼に追いすがろうとし、
「ひかりちゃん!」と叫ぶ深山にそれを止められた。「だいじょうぶ。だいじょうぶよ、彼とはまたすぐに――」
とそうして彼女は、深山千島は、ひかりを抱きしめ、どうにか彼女を落ち着かせようとしたが、その努力を始めるよりもはやく、事態は、彼らの状況は、さらに、おそらく悪い方向に、動いた。何故なら、
チャッ。
と部屋を出ようとした朱央の額、それに深山の後頭部にも、それぞれ光る赤い点――自動式拳銃のレーザーサイト――が当てられたからである。
「なるほど、あんたか」それは左武文雄と三人の部下であった。彼は続けた。残念そうに。「すまないが、身柄を拘束させてもらうよ」そうして、ため息のひとつでも吐くかのように、「会長から娘さんを連れて来いとの命令だ」
そうして――、
*
キッィイィーーーーーーーーーーーーーン。
と壁のスピーカーが耳ざわりな音を響かせ佐倉八千代は目を覚ました。長い夜はいつしか終わっていた。
『“穏やかな夜に身を任せたか?”』壁の向こうで男が言った。しばし間を置き、『皆で賭けをしたんだがね』が、もちろんこれはジョークなので、『あなたがいつ拘束を解き扉を壊し警備を突破し逃げ出すか』そう続けて苦笑した。『結局みんな負けてしまったよ』
しかし当然、八千代にこのジョークの意味は分からなかったし、どう返して良いかも分からなかった。仮に分かったとしても、柱に縛られ目も口も塞がれた状態で返せるはずもなかったのだが。男――山岸富士夫と呼ばれる男は続けた。
『“怒りを謳え、女神よ。”』それから一度マイクを切って、ひと息置いてまた入れた。『みんな左武さんの言葉を信じたくても信じられなかったんですよ』左右の部下に視線を送った。『きっと記憶が消えたふりをしているだけだと、彼の力も何かの力で防いでいるだけだと――それほどあなたは恐れられていますからね』
それから男は、ふたたびマイクを切ると、左武文雄からのメッセージを確認した。そこには、祝部ひかりを捕獲して、もう少しでこちらに到着するとあった。ふたたび、ひと息置いてマイクを入れた。
『“暗闇こそが正しい。”』男は言った。捕まえさえすればひかりは問題ではない。『あなたもそれを知る人間のひとりだと想っていたんですがね』
それから彼は、昨日彼女に伝えたこと、この世界の彼女が行なって来たこと、はっきりとした違法行為、テロ行為、正義と呼ぶには行き過ぎた暴力等々について、それで傷付いた、傷付けられた者たちについて語った。より細かく詳細に。彼女がどれほど『怒り』に囚われているかを証明しようとでもするかのように。
『“怒りを謳え、女神よ。”』そう、くり返した。
くり返して、くり返して、くり返して、何度目となるか分からないタイミングで、それとはちがう詩を引用した。
『“怒れ、怒れ、消えゆく光に向かって怒れ。”』
といつか盗んだ、複製した、男の力を使おうとでもするかのように、
『“彼らは穏やかな夜に身を任せたりはしない。”』
彼女の怒りを敢えて、解放しようとでもするかのように、
『“怒りを謳え、女神よ。”』
何故なら、残されている記録――と言うか彼が実際に経験した記憶――によれば、彼女の能力、特にその未来を視る能力は、彼女が感じる『怒り』によって駆動、力を増すからであった。そうして――、
(続く)




