その1
教授が亡くなって次の土曜で三年になる。彼の仕事の良し悪しは私には分からないが、あそこのイチョウ並木で彼が誰かと話しているのなら聞いたことがある。ああいう人の作る音楽なら、きっとよいものなのだろう。
先生の遺体が上がったのは二年前の一月だった。彼女の死を受け、私は書くつもりもなかった物語をひとつ書いた。
「同業者の悲しい自殺がある人の筆を折り、彼女に物語を捨てさせることだってあるだろ?」
この言葉を言わせるためだけに私は彼を呼び戻した。
「いま、崩壊を止められるのなら、止めておかなければいけない」
結果がどうかは知らない。
我々の仕事は基本が負け戦、撤退戦だし、ネットやニュースや政府広報は毎日、世界の指導者層が生産する武器や悪意や子供たちの死体の数を私に教えてくれる。
テクノロジーバンザイ!!
どうでもいいような雑学をひとつ。
西暦1968年、シンガーソングライターのポール・サイモンは、とある楽曲の中で次のように歌った。
『どこに行ったの?
ジョー・ディマジオ。
皆があなたを探しています。』
ジョー・ディマジオとは、ニューヨーク・ヤンキースで活躍した伝説的な外野手で、1941年には56試合連続安打というメジャーリーグ史上不滅の記録を打ち立てている。ポールは続ける。
『なんですって?
ミセス・ロビンソン。
衝撃的なジョーならもういませんよ。』
このときジョーはもちろん存命中。彼もこの歌は聴いており、告訴を検討中――なんて噂が流れることもあった。ある時ジョーは言った。
「おいこら、小僧」と偶然レストランで一緒になった彼に向かって、「俺はどこにも行っちゃあいねえぞ」
ポール・サイモンは、少年時代からの熱烈なヤンキースファンであり、そんな彼にとって『ヤンキー・クリッパー』とも言われたジョー・ディマジオはあこがれ、いやもっと端的に『英雄』『ヒーロー』のひとりであった。彼は答える。少年のような瞳――であったかどうかは知らないが、
「ちがうんだよ、ジョー」とか、まあ、そんな感じに。「僕はあなたが、本物の英雄、この国のヒーローだと考えてあの歌詞を書いたんですよ」そうして、「いま、この国には、正真正銘の英雄、ヒーローが不足しているんじゃないかな?」
1968年のアメリカではベトナム戦争が泥沼化し、4月にはキング牧師が、6月にはロバート・ケネディが暗殺され、若者による反戦・公民権運動は激化、トラウマ的且つ激動的な分断の時代にあった。もう一度ポールの歌を聴いてみよう。
『どこに行ったの?
ジョー・ディマジオ。
皆があなたを探しています。』
うん。やっぱりいい歌である……が、あれ?えーっと? ちょっと待ってね…………あー、うん、ごめん。実は、このお話にはものすごくひねりの利いたオチがあったはずなんだけど、いまちょっと、それをど忘れしてしまった。
と言ったところで――、
*
庭に目をやると、向こうの屋根に、昼間の月がのぼったままになっていた。その下には不思議な色の猫が三匹、なんだかとても疲れた格好で休んでいた。たぶん、眠りこけているか、さもなければ月を見ているのだろう。
「ではだれが?」
「行くなら、僕とまひろくんだね」
台所から突然、自分の名前が聞こえて来て、彼女はそちらをふり返った。ゆっくりと、気付かれないように。彼らの、悪魔と赤毛の会話はささやくように行われていたが、何故だか彼女、リビングにいる山岸まひろの耳には、それが妙に、断片的ではあるもののいやに奇妙に、はっきり届いていた。
「うーん?」赤毛のミスターがうなった。「想った以上に時間が掛かってるね」
どうやら彼らは、ずっと誰かを待っているようなのだが、なかなか戻って来ないその人の代わりに、どこかへ誰かを送らなければならないらしかった。
ゾクッ。
と急に、背中に冷たいもの、いや、無限に枝分かれする迷路のようなもの、広く深く暗い未来の未知性から吹き上げられる風のようなものに、彼女はさらされ身を震わせた。未来は無限に存在するが、それでも、この宇宙の彼女に到来する未来は、ひとつしかないことが直観されたからである。
「まひろくん?」彼女の前に座る女性が訊いた。「大丈夫?」
女性は(少なくとも彼女の目には)とても美しく、その優しい声や瞳から、彼女のことを心から心配していることが分かった。まひろは、ハッとさせられると同時に、その目や唇にしばし意識を取られていた。そのため彼女は、
「すみません、樫山先生」そう彼女に返そうとして、
「まひろくん」とその女性、樫山ヤスコにこう言われた。「大丈夫よ」彼女の右手が彼女の左手に重ねられた、「未来ならきっと、大丈夫だから」
そうして――、
*
「でも、こうなるかも知れないってことでしょ?」木花エマは言った。時間と空間と確率が行ったり来たりしたどこかの未来で、「私たちがやり方を間違えれ――」
そうして、
タタンッ、タタタタンッ。
と、そんな彼女をさえぎるように、いまいる未来、来るかも知れない現実のどこかから、いくつかの銃声は聞こえた。
「え?」
「なに? いまの音?」
彼女たちはいま、とあるテナントビルの屋上にいた。向こうに駅が、反対方向にはいつもの公園が見えた。ここは、街の預言者、行政書士の石橋伊礼が事務所を構えている、構えていたビルだった。銃声は公園側、水辺観察園の辺りから聞こえて来た。
「ちょ、ちょっと待って」エマが訊いた。八千代に、「なに? ひょっとして行くつもり?」
何故なら彼女が、屋上の出口階段の方へと向かっていたからである。
「だって、それが目的なんでしょ?」八千代は答えた。ここに来る前、山岸の祖母に言われた言葉を想い出し、「ここで見たもの聞いたもの、それに耐えられ歩き出せるか、それを試すためのジャンプなんでしょ?」
このときエマは正直、このジャンプに付いて来たことをかなり後悔していた。見下ろした街の風景もそうだし、辺り一面を覆っている灰色というか鉛色の空気からは悪い予感しかしてこなかった。しかも、そこに先ほどの銃声――よね? 初めて聞く音だけど――である。足は小さく震え、両手は置き場に困っていた。出来れば戻る時間が来るまで、ここでじっとしていたいところだが――、
「えい!」と、それでも突然彼女は叫んだ。小さく。「そうね、そうよね、行かなきゃね」
山岸の祖母に大見得切って飛ばして貰ったのは彼女自身ではなかったか。
「ヤッチひとりで行かせたらバカみたいよね」
それから彼らは屋上を出た。階段を下りる途中、赤い顔の悪魔が彼らに向かってお辞儀をしたが、彼らはそれに気付けなかった。が、代わりに、
パサッ。
と何処からともなく一冊のノートが落ちて来て、階下に向かう彼らを止めた。
「なに?」とエマが拾い上げ、「えっ?」と彼女は小さく叫んだ。「これ……血の痕?」
それは、石橋伊礼の預言のノート、その残った最後の一冊だった。
(続く)




