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その16

「ねえ先生」そうして男は言った。「もうどうにもならないでしょ?」と壁に張り付けにした相手に向かって、「せめて死ぬ前に、その『預言』とやらを見せて下さいよ」


 男はいま、相手の男性・石橋伊礼を壁に張り付けにしたまま、また別の力で、この事務所にあった色々なもの――ペンとか、カッターとか、事務の平井さんがリンゴを剥くのに使っているナイフとか――をその彼に向けていた。


 もちろん。彼が盗み持っている他の能力を使えば、例えば水を沸騰させて、それを固めて伊礼にぶつけることも出来たし、また例えば、彼の血液を凝固させ、ひどい痛みを任意の場所に与えることも出来たのだが、拷問のためにそこまでやる必要はなかったし、この能力の同時使用も大体コツがつかめて来たので、いま、ここでこれ以上、他の能力を使う必要はなかった。男、灰原神人は続けた――先生の、


「先生の、先生の未来を視る能力を頂きます。これは確定事項ですが、ただ、その前に、使い方を一度見せておいて頂けると助かるんです。先生が死んだその後でね。自動車だって、先ずは指導教官が運転を見せるでしょ?」


 彼の『盗人』の能力は、その名のとおり、あくまで相手の能力を盗むだけのものであって、その使い方までは教えてくれない。盗んだ後に自力で発見、覚えるか、これから殺す相手に一度やり方を見せて貰うか。石橋伊礼は訊いた。壁に張り付けられたまま、かすれた声で、


「未……来?」と。ズボンのポケットにスマートフォンが入っているのを想い出した。「未……来?……が視たいの……かい?」


「ええ、まあ」灰原神人は答えた。「ちょっと面倒な相手がいて、そいつとやり合うのに」


 このとき彼、死の一歩手前にいる石橋伊礼の脳裏によみがえったのは、もちろん恋人の川島重雄の姿であった。それは間違いない。彼の死は、灰原神人の意思に関わらず、彼自身が視た預言によって確定事項であった。運命は変えられない。彼は、伊礼は、きっと最期に、愛する恋人の声を聴き、恋人への別れの言葉を口にしたかっただろう。が、しかし、


「き……み……の未……未来……なら」しかし、彼はそれをしなかった。「も……う……視……て来た……よ」


「え?」


 何故なら、それはもちろん、先ほどスマートフォンを操作した際、最後に開いたのが彼女からのメッセージだったこともあるが、それ以上に、それより先に、彼女が彼を、目の前にいる殺人鬼を、倒す場面を彼は、その預言の中で視――あ、いや、ちがう、彼が彼女に視ていたのは、そんな場面ではなかった。伊礼は続けた。


「き……みは……と……とめら……れる」こころの中で、しずかに彼女に謝りながら、「な……にも……のにもな……なれ……ない」


「止める?」灰原神人は訊き返した。「誰が? ぼくをか?」


「“希……望”」石橋伊礼は答えた。最後の力をふり絞って、「か……のじょ、かのじょは……き……ぼう……」ごめんなさい、八千代さん。「希望のかた……ち……をしている」


 ぶぶっ。


 と、そうしてメッセージは送られた。


 彼、石橋伊礼は、彼が視た預言のとおりの最期を迎えた。


 灰原神人は、よほど伊礼の言葉や態度が気に入らなかったのだろう、他の被害者の時のようには彼の血を抜き取らなかった。


 そこにはある種の戸惑い、怒り、焦りのようなものがあった。


 彼の血は、いきおい、そのまま周囲へと飛び散った。壁と、床を汚した。


 石橋伊礼の死体が、他の被害者たちとは違い、血にまみれていたのは、これが理由であった。


 そうして――?


     *


 そう。そうして、玄関先での騒ぎ――まひろの胸をひかりがさわり、ヤスコとまひろが見つめ合っては固まったり、それを咲子がからかったり――から逃げるように、不破友介は、ひとり静かに庭へと出た。

そこは、いつものとおりの、花の盛りの楽園であった。


 戸口には百合が、境界線には夾竹桃が、大山木の香りに負けじと立っていた。芙蓉や木槿控えめに、ダリアにアナベル半夏生。くちなしの、実の朱――いやいやいやいや、まだ早い。


 と、不破友介は、苦笑をすると首を振り、向こうの窓の蔦を見て、それから屋根の藤を見上げた。昼間の月に、奇妙な黄茶と、赤い、血のような色が一瞬重なりすぐ消えた。


 不破友介は、しばし固まり、首をかしげそうになったが、さらに小さく首を振ると、それでも静かに、ふたたびひとり歩き出した。


 庭を渡った向こうには、かつての咲子の部屋があり、その碧水色の八畳間では、少女がふたり、いまだ眠りの中にいた。


「ふむ」不破はうなずき、彼らの顔を交互に見てから、「とくに……変わりはないようですな」


 とそのまま部屋を、ふたたび庭の方へと出ようとしたが、


 ぶぶっ。


 とここで彼は、悪魔は、不穏な、先ほどの血の赤を想い出させるような、そんな不吉な音を聞いた。

 佐倉八千代のスマートフォンに届いた、石橋伊礼からのメッセージであった。



(続く)

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