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その10

「ダメだ、やっぱりヤツとは縁を切らないと」ペトロは言った。強い口調で、「最悪この町、この国を出てもいいから逃げないと」


「でもお店は?」マリサは応えた。彼らはいま、リビングのソファに向かい合って座っていた。「せっかく再開のめども立って来たのに」


 彼女はいま、彼女が、いや、彼女の身体を借りたオフェリアが、天台烏山と繋がり、彼の指示でやって来たことをペトロに伝えたところだった。肝心のオフェリアは、昨日の天台および山岸富士夫との面会で精神を消耗し過ぎたのだろう、マリサの奥でずっと眠ったままである。ペトロが答えた。


「別の場所で再開すればいい」彼女の手をつよく握った。「だけどお前に、お前の身になにかあったらどうする」オフェリアに操られた彼女をなぐった時の感触が想い出された。「俺の一番大切なものは、お前が一番わかってるだろ?」


 彼女が彼に伝えたことの中には、昨日の面会で聞いた天台烏山の『計画』その断片も含まれていた。もちろんその全貌は分からないし、実際に起こるかどうかも分からない。聞こえたそれらの断片もほとんどが意味不明ですらあった。であったが、そこに含まれる不吉さ、なにか大きな事が起こるかも知れない予兆というものは、伝え聞いただけのペトロにもよく分かった。彼は続けた。


「俺の家族に、お前やアーサーになにかあったら俺は耐えられない」と彼女の中のオフェリアさえも受け入れる覚悟で、「他にも土地はある。この前あいつと飛ばされた場所も――」


 がしかし、ここで彼は言葉を止めた。何故なら、窓の外は明るく、町は動き出しているにも関わらず、この家の中が異様に静かだったからである。いつもなら、バタバタバタと小さな足音が家中を駆け回っている、そんな時間であったのに。彼はつぶやいた。突然、ハッとしたように、


「アーサーはどうした?」


     *


「でもよかったよ、やっと会えて」


 とそうしてこれと同じころ、アーサー・ウォーカーはパンケーキを食べていた。彼らの家から遠く離れたある駅のファミリーレストランで、


「おじさんとふたり心配してたんだからね、ほんと」とすこし憮然とした表情で。


「ほんとごめんね、アーサー」彼の前には伯母のマリサが座っていた。少なくとも彼にはそう見えていたし、周囲の人にもそう見えているだろう。「パンケーキ足りる? おかわりする?」


「もういっぱいだよ」彼は答えた。嬉しそうに。ただそれでも、メニューの写真が目にはいったのだろう、「あ……、でも……、アイスクリームならいけるか――」


 とここで、


「おいこら、アーサー」と隣に座る伯父のペトロ――少なくとも彼にはそう見えたし、周囲の人にもそう見えているだろう――が、「朝からアイスなんかダメだ、虫歯になっちまう」と叱って彼を止めた。


「いいじゃない、すこしくらい」マリサに見える人物が言った。「心配させたお詫びよ」


「それとこれとは話が別だ」ペトロに見える人物は答えた。「大体お前はアーサーを甘やかせ過ぎなんだよ」


「甘やかしてなんかないわよ。ねえ? アーサー?」


「いいや、甘やかしてるね。この前だって――」


「うるっさいわね、それくらい」


「うるさいとはなんだ」


「なんだとはなによ」


 そうして、こんなふたりのやり取りをうれしそうにアーサー・ウォーカーは眺めていた。最近はとにかく色々なことが起きていたし、昨日も友だちのところへ行くと言ったままマリサが帰って来なくてペトロとふたり心配していたからだ。


「オーケー分かった。ただしアイスは三人分注文しろ」結局、ペトロのように見える人物が折れた。「どんな味か見てやる」


「やったわよ、アーサー」マリサのように見える人物は言った。「あなた、なに味にする?」


 明け方アーサーを起こしたのは、ペトロのように見える人物だった。本物のペトロが本物のマリサの帰宅に気付きリビングへ行っている間に、寝ぼけまなこの彼にマリサが待っていると伝え、彼を連れ出したのである。彼を抱え、マンションを出、動き出したばかりのバスに乗って。どうして彼がここまで簡単に騙されたのかは分からないが、頭が半分寝ていたことと、ペトロのように見える人物の能力が彼の判断を鈍らせていたのかも知れない。


「あー、おいしかった」アーサー・ウォーカーは言った。チョコバナナサンデーの欠けらが口もとに付いていた。「そしたらそろそろもどる?」


「もどる?」ペトロのように見える人物が言った。


「あ、それがねアーサー」マリサのように見える人物も言った。「実はあなたに、会いたいって人がいるんだけど――」


 ふたりが彼をここまで連れ出して来た理由、それは天台烏山が彼を呼んでいるからだった。


     *


 戸柱恵祐を肩に担いだ時、左武文雄は、先ずは驚いて、それからすこし悲しくなった。彼の身体が想像以上にうすく、軽すぎたからである。細身の女性か、中学生になったばかりの少年でももう少し持ち重りがするだろう。


 彼は疲弊し、衰えていた。祝部家で別れたとき以上に。


 ベッドに横たわり、意識はほぼ無く、点滴に繋がれていたので栄養は補給されているのだろうが、自身の能力に喰われているのか、消費に供給が追い付いていないようにも見えた。


「くっそ」左武文雄はつぶやいた。彼を担ぎ上げる前、「外していいのか? これ」としばし判断をためらった。


 ここから逃げ出すのに点滴台は邪魔になるし、彼を眠らせている薬が薬液に混ざっている可能性も高い。管を抜き、中の薬液がこれ以上彼に侵入しないようした方がよいのだろうが、それで果たして彼の身体は持つだろうか? 祝部家で彼の能力、暴走を見た左武からしてみれば、この管を抜いた瞬間、彼の身体はみるみる小さく、そのまま何処かへ消し去らわれてしまうのではないか、そんな風にも想えたのである。であるが、


「さ……たけ、さ……」とここで突然、戸柱恵祐がつぶやいた。そんな左武の惑いを感じ取ったかのように、「だ……いじょ……」


 彼の目はうつろで、左武の方を向いてもいなかったし、実際に声に出したのもこれだけ。こころの声もうつろで支離滅裂。左武の言葉に反応を返すこともなかった。が、しかし、それでも、


「くっそ」とふたたび左武はつぶやいた。今度は彼を抱き寄せながら、「いまのを信じるぞ、戸柱」と。


 そうして彼らは部屋を出た。点滴を抜き、左武が彼を肩に担いで。不思議なことにこの間、誰にも見咎められたりしなかったが、気持ちが急いでいたからだろう、彼はそれを不思議なことだとは想わなかった。


 そうして――、



(続く)

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