その2
「それで、山岸まひろさんは?」
と友枝久香は訊いたが、彼らにとって彼女の行方は未だ不明のままであった。と言うのも、祝部家における戸柱恵祐の爆発未遂事故からこっち、彼女とミスターの姿を彼らが見ることはなかったからである。例の森から場所を変えたか、SEPとはまた別の迷彩技術を使い始めたのかは分からないが、伊礼の預言にも、いまの彼らが出て来ることはなく、それは優太も同様であった。
「分かったわ」久香は言った。言葉を選び、富士夫とひかり、それに天台の件は匂わせないよう注意して、「報告が本当ならとても強力な能力者のようですし、ひき続き捜索をお願いします」
「はい。それは――」とここで優太は報告を終えようとしたが、不意に、口をつむぐと、「戸柱くんは?」そう久香に訊いた。「彼はいまは?」
いまの優太にひかりの記憶はなかったが、それは彼女がいた全てのシーンが丸ごと消えているということでもなかった。記録映像の中から彼女の姿や登場パートをカットし編集、あやふやな部分には他の記憶映像をかぶせたり適当な脚本をあてがったりした感じ、と想ってもらえば近いだろうが、要は、戸柱恵祐のことも、彼が安堂夏彦や左武文雄と一緒に祝部家へ押し入ったことも彼は、そこからひかりが消えた状態で憶えているということである。優太が恵祐をとても不憫に想った感情も含めて。
「彼なら大丈夫よ」久香が答えた。ここでももちろん言葉を選び、「いまもよく眠っているわ」
もちろん、この『眠っている』は、会社所有の施設で身体を拘束、隔離され、投与された薬で『眠らされている』という意味である。そのため、
「それは……」とここでも優太は、何かを答えようとして、結局不意に口をつぐんだ。しばらく、そのまま、「…………」
「なに?」久香が言った。柄にもなく少し急いで、「なにか気になることでも?」
しびれを切らしたわけでもないが、優太の態度にどこか以前と違うものを、娘を失くしたのとはまた別の変化を、彼女は感じたからである。
「たしかに」彼は答えた。「たしかに戸柱は危険ですが」と爆発直前の彼と自宅リビングを想い出しながら――なぜあんなところにクマのぬいぐるみが?――「薬で廃人にするほどではないのでは?」
この答えに久香はすこしおどろいた。もちろん顔にも声にも態度にも出さなかったが。
「優太さん?」と彼女は言いかけ、
「山岸まひろも」とその続きをさえぎるように彼は続けた。「我々の気配を感じ、不審に想っているからこそ身を隠しているのでは? 戸柱くんもそうですが、彼らの協力を得たいのなら、まずはきちんとした説明と説――」
「祝部さん」久香が言った。今度はすこし強い口調で、「どうしたの? いきなり」
「あ、」優太は気付いた。自分が何を言っているのかを、「いえ、なぜか……すみません」
くり返しになるが、いまの優太にひかりとの生活や彼女との別れの記憶はない。がしかし、そんな彼女との別れ、それにその後の『なにかが欠落したような感覚』は、彼の身体そのものをゆっくり変化させており、結果として彼の性格や考え方をも少しずつ変化させているようだった。
そうして――、
*
「くり返しになるがね、富士夫くん」とそうして天台烏山は言った。本の山を掻き分けながら、「ここでの私の残り時間はかなり少ない」
それから彼は、店の奥扉の前まで行くとこちらをふり返り、
「私の力は、どうやら自分には向けられないらしくてね」と富士夫のうしろに立つオフィリアにそこで待つよう合図した。「ま、だからと言って後悔もないが」
がしかし、彼の能力については、富士夫もオフェリアも聞かされたことがなく、ふたりとも一瞬「?」と言う顔をしたのだが、
「あ、いや、いまのは忘れてくれ」とそれに気付いた天台烏山が、自らそらした話題を戻した。「要は、『浄化』の第二、第三段階について、いまのうちに詳しく伝えておきたいという意味だよ」
それから彼は奥扉をひらき、富士夫を中へと招じ入れた。
「まずは『壁』の説明からだが――」
そうして――、
*
そうして彼に与えられたのは、気持ちひろめの1DKで、机にベッドに冷蔵庫、自炊用の炊飯器やら調理器具など、生活に必要なものはすべてそこにそろっていた。スマホは取り上げられたが、テレビは後日、パソコンも閲覧のみならすぐにでも支給してくれるという。3~4階だろうかバルコニーに出れば見晴らしもよさそうで、最初にここを見せられたとき彼、左武文雄は想わず苦笑した。安月給で暮らす自身のアパートより何倍も高そうで何倍も快適そうに見えたからである。もちろん、バルコニーへの扉は開かず、外には出られず、移動もこのフロアーに限定されていなければ、の話だが。
「いずれは外出も」と、ここに来させた女は言ったが、「最初は信頼作りから」いずれが来るかは当てにならんな。
「ふん」
と言うことで現在彼はスクワットをしていた。これが終われば腕立て腹筋、晩飯の準備は出来ているし、頼んだ本は届いていない。ずっと昔の空手の型が、こんなときには役に立つ。撃砕、三戦、転掌、砕破。身体の様子を確認し、その調整をくり返す。自分がここにいる感覚。余計なことを考えなくて済む感覚。立禅、呼吸は苦手だったが、師匠が言っていた意味が、いまなら何故か分かる気がする。
「天と地つなぐひとつの線」それをいつでも探すこと。「それが君のよりどころになる」
たしかに状況は最悪だが、絶望までには距離がある。署長と右京に何も伝えられなかったのはつらいが、生きていればきっとチャンスもあるだろう。
「うん」
とここで彼は動きを止めると、呼吸を整え汗をふき、今度は床に手をついた。腕立て伏せに切り替えようとしたわけである。が、
『……か、
………て、』
とそこに、まるで糸電話を通したような誰かの声が、そこの床から彼の手のひらを経由して耳に頭に聞こえて来た。
『…………れか、
……………けて、』
彼はそれが誰の声か、誰の『こころの声』であるかがすぐに分かった。彼は呼びかけた。
「戸柱?」こちらの声が届かないのは重々承知の上で、それでも、「……お前なのか?」
『だ…れか………て、
だ……れかた…すけて。』
それは確かに彼の声、戸柱恵祐のこころの声であった。薬でこころを壊されかけている彼の、必死で放った、孤独な救難信号であった。
(続く)




