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その1

 観覧車に男がふたり。季節は冬だろうか、ひとりはトレンチコートに細身のマフラー、黒の中折れ帽を被っていて、ひとりは、こちらはなにかの作家だろうか、不景気そうな顔に暗い色のスーツ、似たような中折れ帽を被っていた。


 テレビが途中で切り替わったので話のながれはよく分からないが、どうやらふたりは旧友で、トレンチコートの男が売る『水で薄めたペニシリン』がこの町の子どもにまで深刻な影響を与えているらしく、不景気そうな男は、そのことでトレンチコートの男を非難している様子であった。トレンチコートの男が応えた。観覧車から地上を見下ろし、


「あの点がひとつ永遠に停止するごとに、所得税抜きの2万ポンドが貰えるとしたら、君はそれを断るかね?」


 ここで言われる『あの点』とは、地上を歩く罪もない――かどうかは分からないが――ただの市井の人たちであった。不景気な顔の男は言葉に窮し、しばらく沈黙していたが、それでも観覧車は回り続け、地上は近付いて来る。中折れ帽の男が続けた――誰かが言っていたな、


「誰かが言っていたな、ボルジア支配のイタリアの三十年は戦争、テロ、殺人、流血をもたらしたが、そいつは結局、ミケランジェロやダヴィンチ、偉大なるルネサンスをも生んだ。がしかし、それに対してスイスの同胞愛はどうだ? 彼らの五百年の平和と民主主義はいったい何を生んだ?」


 不景気な顔の男は沈黙を続けていた。トレンチコートの男はわらった。


「鳩時計だよ」そうして、「さらばだ、友よ」


 そう言い残すと彼は、観覧車を降り、人ごみの中へと、『あの点』たちが群れ集う中へと消えて行った。このあと彼らがどうなったのか? それを私はよく知らない。何故なら、


 プチッ。


 とここでテレビが消されたからである。これを見ていた老齢の紳士の手によって。ここは、彼が営む――かどうかは分からないが――少なくとも所有する小さな古書店の中であった。紳士は言った。こちらをふり向きふり返り、そこに座る山岸富士夫に――どうかな? 富士夫くん。


「どうかな? 富士夫くん。僕は彼の、トレンチコートの彼に近い意見なんだがね」と。「もちろん、金のためではない、もっと大きな、大義のためにだがね」と。


 そうして――?


     *


 食卓には女が二人と男が三人。ときは夜。食事は質素で、灯りは暗い蝋燭のみ。窓の外からは多くの人のささやく声や押し合う音、それに、


「一度そいつを見てみたい」


 という熱気のようなものが届いていた。ここで言う『そいつ』とは、三人の男のうちの一人で、彼はつい最近四日間ほど死んで生き返ったばかりであった。


 つまり、窓の向こうの大群衆は、要はただの野次馬か、あるいは神の奇跡を信じる愚者および貧乏人の集まりであった。


 そうして、問題の男は、死のふちより蘇ったばかりで、ふらふらし、会話も苦手で、それにそもそも生き返ったことをあまりありがたがってもいなかった。


 そのため彼は、大群衆に応えて外に出るような気分には到底なれなかったし、また、この場面の主役が自分ではないこともはっきりと分かっていたので、あまり出しゃばらず、黙々と食事を取ることに集中していたのである。


 では、このシーンにおける主役とは誰か?


 それは、残るふたりの男のひとりで、彼はこの五日後、高いたかい木の上に釘付けにされる運命にあったし、そのことを彼自身十分承知していたし、もちろんそれを誰にも言わずにいた。とここで、


 ガタンッ。


 と大群衆の熱気だろうか、扉が妙な音を立て、女のひとりが食卓に石膏の壺を運んで来た。中には高価な香油が入っていた。


 この女は、もう一人の女もそうだが、生き返った男の姉で、彼女たちは、どうすればひとの助けとなることが出来るだろうか、とそういうことの考えられる女たちだった。


 つまり、石膏の壺を運んで来た彼女は、問題の男、高いたかい木に釘付けにされる予定の男が、よほど疲れているように見えたのだろう、その高価な油を使い、疲れた彼の足を揉み、いっときの癒し――ここで『快楽』とでも書こうものなら私は、ありとあらゆるところから非難の集中砲火を浴びることになるだろう――を与えようとしたわけである。


 家中が高価な油の匂いでいっぱいになり、問題の男も、女の手や髪、その声や息づかいに大変な……まあ、癒しを感じた。


 が、しかし、そんな光景に我慢ならないのが、残るもうひとりの男である。


 彼は、釘付けにされる男の十二番目の弟子に当たり、大変ねたみ深く、偽善者であり、銀貨三十枚と引き換えに師を売り渡すような、そんな男であった。彼は言った――何故こんな無駄を?


「何故こんな無駄を? その油を売り、銀貨三百枚に換え、貧乏な人々に施した方がよほどあなたらしいのでは?」


 もちろん彼は偽善者で、盗人で、金で師を売るような男であるから、これは単なる妬みや嫉みや当て擦りから出た言葉である。師は答えた――案ずるには及ばないよ、


「案ずるには及ばないよ、ユダ。何故なら君たちは、ずっと貧しい人々のそばにいるけれど、いつも私のそばにいられるわけではないからね」


 くすっ。


 とそうして、ここで友枝久香は静かにわらった。部下の報告を聴きながら。何故なら彼女は、その報告内容にこのシーンをふっと想い出したからであるし、ここでの男の言葉が気の利いたブラック・ジョークであったと、ようやく理解したからでもあった。


「何故なら君たちは、ずっと貧しい人々のそばにいるけれど、いつも私のそばにいられるわけではないからね」


 師は、弟子の偽善を理解し、それをたしなめたのである。


「友枝さん?」部下が訊いた。「どうかしましたか?」


 何故なら、彼・祝部優太の報告は続いていたし、こんな風に笑う彼女を見たのはこれが初めてだったからである。


「え?」久香は答えた。「あ、ああ、ごめんなさい。ちょっと想い出していただけ」優太の方に向きなおり、「石橋さんの『預言』の話だったわね」


 優太の報告は、石橋伊礼の新たな、と言うか更新された、『世界の終わりの直前』に関する預言についてだった。前回書いた通り、彼の預言は更新されていた。


 街が燃え、『壁』が現れ、人々が飲み込まれ、爆発と混沌が世界を覆う――とここまではこれまでと同じだが、


「3~4人?」と久香は訊き返した。「以前はひとりだったけど?」


 問題の爆発というか現象の中心にいる人物の数が増えていたからである。


「誰かは分かったの?」続けて彼女は訊いた。


「はっきりとはしないようです」優太は答えた。「背格好と大体のイメージだけ」


 もちろん、その『背格好と大体のイメージ』から、優太も伊礼もそれぞれ、何人かのこころ当たりを持ってはいたが、それは敢えて言わないままにしておいた。推測の域を超えないのもそうだが、下手に個人を特定し逆に状況を混乱させたくない気持ちもあった。


「ふーん?」久香は考えた。彼女の方でもこころ当たりはあった。


 もともと中心にいた人物は山岸まひろで先ず間違いないだろう。街を燃やす人間は、いま会社で監禁している戸柱恵祐。優太や伊礼が想い出せないでいる少女、これはその『想い出せない』ことから祝部ひかりだと分かるが、そうだとすると疑問はふたつ。


 ひとつは、どうして(どうやって)ひかりがその場にいたか? ひとつは、まひろ、戸柱、ひかり、あとのひとりが結局よく分からないこと。


「うん?」と久香は考えを続けようとしたが、しばらくそれを留保した。


 一応くり返しておくと、今回の預言について伊礼は優太に、彼本人の死と、爆発の中心にいる残るひとりの人物が山岸富士夫ではないかという推測を敢えて伝えておらず、これが久香が首を傾げた理由・予感に繋がるわけである。


 そう。つまり彼女は、自ら疑問を留保することで迷路にはいり込むことを避け、また別の課題に頭と視線を切り替えたのである。彼女は訊いた。


「それで?」と。「それで、山岸まひろさんは?」



(続く)

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