その15
ひき続き部屋は暗く閉め切られていた。雨戸を上げればそこに初夏の日差しもあっただろうが。彼らは向き合い、どちらも大量の汗をかいていた。ひとりは壁に押し付けられ、ひとりは部屋のまん中に立っていた。立っている方が訊いた。
「結局、あなたは誰なんですか?」
相手の身体はほそく、華奢で、彼、灰原神人の能力を持ってすれば、このまま首をへし折ることも、呼吸を止めてやることも、外からまったく見えないかたちで心臓を停止させることだって出来た。が、それらはやってはいなかった。まだ。いまのところは。
「ぼ……くが?……だれか?……だって?」
『リスト』の意味を理解し、自分の正体を見破り、不意を突かれた形ではあったが、しばらく気絶もさせられた。
「ぼ……くは、ミス……ター……」
ひょっとして、彼にも能力が?
「そ……れ以……上……でも以……下でもない。た……だのミスター……」
「あなたも能力者?」灰原神人は訊いた。
「は……は」ミスターは答えた。すこし笑って、「さ……あね、た……ぶん、ちが……うんじゃあ……」
ぱちん。
とここで灰原神人は指を鳴らした。ミスターの口がかたく閉じられ、彼はさらに壁に押し付けられた。
「本当に?」灰原神人はつぶやき、彼の方へとにじり寄った。恐るおそると、「……本当に?」
これまで何度もして来たように、相手のオーラ、いや、相手の内部をのぞき込み、能力の有無を、時空の歪みの、前世の記憶の、有るか無いかを確かめようとしたのである。であるが、
「何者……? なんですか……?」と続けて彼は戸惑った。「いったい、あなたは……?」
何故なら彼の内部には、歪みもなければ転生者のような能力もなかったが、代わりにあまりにリアルな、そうして間違いなくこの宇宙での記憶が残されていたからである。彼と、彼とはまたちがう四人の彼の記憶が。
「だ……から、言っ……ただろ?」彼は答えた。「ぼ……くはミスター。た……だの……ミスター…………だ」
それは、彼がこの姿になるまでの、また別のミスターたちの記憶だった。
そうして――、
*
「残念ながらと言うべきか、よろこばしいと言うべきか、能力は発動されなかったようだね」
とそうしてホテルの奥の奥、従業員も知らないような扉をとおって彼らが出たのは、妙に明るい、小さく細い路地だった。そこに、ふるびた古本屋はあった。
そう。そこはまるで、歴史にすら忘れられた本たちが、何百、何千、何万冊と集まって、積み重なっては不幸(あるいは幸福)の壁を作り、通路を作り、店のかたちを保っている――そんな場所であった。
「さあさあ、どうした、中へお入り」壁と通路の奥の奥から、富士夫とオフェリア、ふたりを呼ぶ声が聞こえた。「いろいろと話さなければならないこともあるし、そちらも、いろいろと訊きたいこともあるだろうし」
声の主は身なりのよい老年の紳士で、壁と通路の奥の奥、申しわけ程度のレジの前、店番用の椅子に座って彼らを待っていた。両手はひざに、背筋を真っすぐと伸ばし、なんだかとても、嬉しそうに。
「ようやく会えたね、富士夫くん」そうして、「やはり君らはお似合いだよ、オフィーリアくん」
彼のうしろには小さなアナログテレビが置かれていた。その日のニュースを流していた。流し続けていた。切れ目なく。不思議なことに、あらゆるチャンネルを行ったり来たりしながら。音は消されていたが、内容はいずれも、怒りと嘆きと権力とスポーツ。それにネコやらイヌやら行列の出来るなんとやらを混ぜ込みうすめた、死と腐敗と、女の顔をした戦争に関するものばかりだった。
「どうして娘さんだと気付けたんだい?」紳士が訊いた。ふたりにお茶を出しながら、「やはり、血のつながりを感じたのかね?」
「あ、いえ」富士夫は答えた。「理主――彼女の母親が写真を」
「なるほど、山賀さんに会ったんだね」紳士はうなずいた。「彼女にも悪いことをしたが、咲子さんの目が届かないようにしたかったのでね」
お茶を持つ富士夫の手が中空で止まった。しばし考え、
「すみません、天台さん」彼は訊いた。「うちの祖母とはどういったご関係で?」
がしかし、このとき紳士――天台烏山は、うしろを向き、テレビの中の戦争、うすら笑いの女の顔を眺めていた。ほとほとあきれた。とでも言いたげな表情で。彼は人類を見限っていた。なんと野蛮なサルどもだろう、と。しかし、
「いま、世界は狂っている」彼は言った。富士夫の問いには答えずに、「狂わしているのは人間だ」
彼は、世界自体を見限ってはいなかった。
「要は、バランスなんだよ」と。
「どんなものでも、バランス次第で、狂気にもなれば正気にもなれるんだよ」と。
テレビの中では不死身のジェドが、バンカー穴から檄飛ばし、コンボオーバーイグアナと、金や金塊、ちいさな子供たちを山分けしていた。ふたり一緒に、仲良く肩抱き、疲れ切ったアトラスの背中にまたがりながら、実態を生み出せない金持ちどもをひざまずかせて。天台烏山は続けた。
「『転生者たち』は、ずっと以前からこの地に来ている」また、話が変わった。「宇宙をまたげば、時間の制約は、一旦なくなるからね」
富士夫の顔を見、オフェリアの顔を見た。ふたりにお茶を飲むよう勧めた。自分もひと口だけすすった。
「きっかけは分からない」ブツッとテレビのスイッチが切れた。「ひょっとすると、咲子さんなら知っていたかも知れないが」すこし考え、「まさか、いま、このタイミングでお亡くなりになるとはねえ……」
彼が考えているのは、たぶんに『壁』と『窓』のことだろうが、そのきっかけを彼は知らなかったし、富士夫やオフェリアにおいてはなおさら何のことだか分からなかった。が、
「いずれにせよ、リセットは必要だ」と語る天台の声には妙なリアリティと切迫感、それに必要以上の有責性が感じられた。「それで世界は、すこしはよくなる」
が、しかし――、
「ただ、おばあさまと同じように、私の時間にも、そろそろ終わりが近いようなんだ」もちろん誰にも、その理由は分からないが、「そこでどうだろう富士夫くん」
とっぅぉおぅオォオオオ―――――ォオン。
どこかで何かの、細くてかたい、ひとつの弦の、切れるような音がした。
「出来れば君に、私のこの仕事を引き継いで貰いたいんだが」
(続く)




