その12
そうして、実の親子の初対面は大失敗に終わった。
いや、ある意味では大成功に終わったのかも知れないが、『親子の対面』という意味ではまったくの大失敗であった。
なぜなら彼らは互いに、自分があなたの父であり、あるいはあなたの娘である旨を伝えなかったのだから。
「お名前は?」と会話の端緒を開こうとしたのは父親だったが、彼はすぐに、
「それくらいはいいでしょう?」と言って向きを変え、立会人の女性に確認を取った。「なんと言って呼べばいいのかも分からない」
このセリフは、面会の直前に追加された『相手の素性を詮索しないこと』という条件を受けてのことだったが、
「ええ、はい、それくらいは」と立会人の女性は答えた。すぐに。部屋の出口に立ったまま、「もしダメな方向に話が進めば、そこで私が止めますから」とそれから娘の方を見て、「どうする? 自分から言う?」
娘はうなずいた。喉はからからで、唇を動かせるかの自信はなかったが、
「ひかりです」と続けて答えた。声が小さいと想ったのか、「祝部……ひかりです」と重ねて言った。
「ひかり……さん?」富士夫は応えた。なんとか微笑を作りながら、「いいお名前ですね」ただしそれでも他人行儀に。
いちおう補足しておくが、このとき彼は、目の前にすわる少女が、彼の実の娘であることを知っていた。なぜなら彼は、以前、彼女の実の母親である山賀理主から、彼女の写真を見せてもらっていたから。
「ありがとうございます」ひかりは応えた。富士夫の顔をジッと見て、それから、「よければ」と。「よければ、お名前を訊いても?」
そうしてもちろん、彼女も彼が自身の実の父であることを知っていた。団体からの――いまそこにいる立ち会い女性からの――説明があったことはもちろんだが、それでも直観的に。特に彼の目や口のかたち、それにその声のトーンなどから。
「富士夫です」彼は答えた。いまにもその場に崩れ落ちそうだったが、それでも、背筋を伸ばし呼吸を整え、両手を握ってひざに置いて。「山岸、富士夫」
彼らの間にテーブルはなかった。ふたりとも凝ったつくりのアンティークチェアに座っていた。色からきっとマホガニーだろう。距離は1メートルとすこししか離れていなかった。きっとゆっくり立ち上がれば、あるいは勇気の欠けらのひとつでも持ち合わせていれば、父は娘の、娘は父の、その手を取ることも出来たかも知れない。が、それでも彼らはそれをしなかった。富士夫は天台の、ひかりは立ち会い女性からの指示を守――あ、いや、それはウソだな。彼らの間には、ただただ、十六年という、高く、厚く、長い、おいそれとは乗り越えられない、時間という『壁』が置かれていたから。
「富士夫さん?」娘が父の名を呼んだ。もちろんすでに知った名だったが、それでも少しうれしかった。「――ご家族は?」
それから数十分、彼らは会話を交わした。ぽつぽつぽつ、と。もちろん立ち会い女性の目を気にしながら。話せる範囲で。富士夫に課せられた『相手の素性を詮索しない』ルールのせいで、もっぱら問いはひかりが出すかたちであったが。すると、
ぷるるるるるる。
と、そんな彼らのぎこちない会話を断ち切るように、この部屋の電話は鳴った。出たのは当然、立ち会い人の女性だった。彼女は答えた。
「ええ、はい」とか、
「いいえ、順調です」とか、
「はい。それは守って頂けています」とか、
妙にかしこまった声と口調で、最後に、
「いえ、この部屋にもお二人にも、これと言った変化は認められません」
と、そう答えていた。そうして、
かちゃり。
と受話器が下ろされ彼女は言った。
「山岸さん」と、ひかりの方は敢えて見ないで、「天台がお会いになるそうです」
そうして――、
*
そう。そうして、それからしばらくして、祝部ひかりはロビーにいた。外の気温が上がったからだろう、強まった空調の風に、ロビーの観葉植物は揺れていた。なんだかすこし、もの悲し気に。
ロビーまでは立会人の女性が連れて来てくれた。が、彼女にも用事があるのだろうか、それとも今にも泣き出しそうなひかりに困惑、辟易したのだろうか、
「ここに座っていて下さい」とだけ言い残すと、そのままどこかへ消えてしまった。「お姉さまを呼んで来ます」
そう。そうして、いま、ようやくひかりは泣いていた。ひとりにされて、ようやく。
泣きたい理由は色々あった。
ひとつは今回、直前になって、『親子であることをひかりからは言わないこと』『相手の事情を詮索しないこと』との条件が突如加えられ、それが、
「お父さまからのご要望です」と伝えられたことであった。「もし言うべきと想われたら、お父さまから言われるでしょう」
と、そうしてその上で、彼が、ひかりのことを、「実の娘だ」とはおくびにも出さなかったこと、これも彼女が泣きたい理由のひとつであった。するとここで、
「しーっ、しーっ、だめだめだめだめ、だめだって」
「でもでもでもでも、ぜったいちひろに似合うって」
「そうそうそうそう、最近すっかりかわいくなったし、これなら祥平くんもさ――」
とはしゃいだ声で、先ほど見かけたくすくす笑いの少女たちが、彼女の前を横切って行った。ひかりは想わず顔を背けた。彼女たちの幸福に自身の憐れを対比させたくなかったのか、それとも単なる羞恥の感情なのか、それは分からないが、いまの彼女に彼女たちとの記憶はなく、いまの彼女たちにも彼女との記憶はなかったから。
そう。彼女が、祝部ひかりが、泣きたくなった本当の理由。それは、彼女の父・山岸富士夫が、とうとうひかりを実の娘と呼んで、認めてくれなかったことにはなかった。
まあ、もちろん、それはそれで悲しい事実ではあったが、こんな、誰に見られるかも分からない、明るい昼間のホテルのロビーで不意に泣き出すほどの理由にはならなかった。
彼女が泣いた本当の理由。それは、いまの彼女には理解も出来なければ、見当も付かなければ、検討すら出来ない事柄なのだが、別れ際に富士夫が伝えた次の言葉の中にこそあった。彼は言った。去り際、立会人の女性に聴き取られないよう注意して。静かに。
「ひかりさん」と。「いいお名前ですね」そうして、「どうか、ご両親を大切に」
そうして――、
*
「分かりました。そう当人に伝えます」
とそうして、部屋にかかった電話に出たとき金平瑞人は、すこしいやな予感がし、そうしてすぐに、そのいやな予感が当たったことを理解した。あ、いや、もちろん、ひとがひとり死なずに済んだことを『いやな予感』と呼ぶのもどうかとは想うが、それでも、この結果を聞いた目の前の女性がどのような行動に出るか、その不安の方が大きかったからである。
「うーん?」電話を切ると彼はうなり、「オフェリアさん」と肩の力を抜きつつ言った。いつも以上におっとりと、「残念ながら計画変更、殺さなくてもいいそうで――」
ドンッ。
と一瞬、おっとりとした彼のエリアに、彼女、オフェリア・モンタルトの殺意あるいは憎悪あるいはこの世界へのいきどおりのようなものが侵入した。が、しかし、彼はどうにか、それを受け流せた。柳のように力を抜いたのがよかったのかは知らないが、それよりも、彼女の怒りや憎悪がすぐに止んだことの方が大きかった。
「わかったわ」白バラのような声で彼女は応えた。「それで? 代わりに私はなにを?」
そうして――、
(続く)




