その4
承前。
「ひょっとしたら、なにかご存知かと想って」
とそれから更に十五分ほどがして刑事たちは帰って行った。来訪の目的は結局よく分からなかったが、ただ最近、天台烏山の周辺で奇妙な出来事・事件が続いており、彼と関係がありそうな人たちにヒアリングをしているのだ、と言うことは分かった。分かったのだが、
「だったらなんで?」富士夫はつぶやいた。彼は結局、いまだ烏山に会えてもいなかった。「会うべきやつなら、他にいくらもいるだろうに」
がこれは、彼のせいと言うよりは彼の祖母のせいであった。と言うのも――、
*
「どうでした? 署長」
「大変興味深かったですね、特におばあさまのお話は」
「部下だけ送って、通夜にも来ない?」
「おふたりの関係を見るに、葬儀まで出るか、まったく接触しないかのどちらかですよね」
と小張と右京が話し、また前にもすこし触れたとおり、ほぼ無一文状態でこの地に流れ着いた天台少年を見つけ、ひろい、最初に面倒をみたのは、いまは亡き山岸咲子だったからであるし、
「あと、いまの天台さんの取り巻きって、どなたも皆さん、ドライというかビジネスライクに過ぎるんですよね」
「天台みずからそう仕向けている風もありますしね」
「そうそう。例の心療内科医殺しや船場さんの失踪と繋げるにはどうも熱量がちがう」
と彼らは、天台烏山の黎明期、あるいは興隆期、彼の熱が周囲に見えやすかった時代の関係者から話を聞いて行くことにしていたからでもある。しかも、それとは別の話としても、
「結構ビンゴかも」と小張も想い言うとおり、「マリサさんにも反応しましたもんね」
「あれ、びっくりしましたよ、いきなり言い出すから」
「私もびっくりしましたよ、ついつい言葉が出ただけなのに、山岸さん分かりやすいんですもん」
実際問題、富士夫本人が想像する何倍も、天台烏山の山岸家に対する想い、執着のようなものは、ずっと根深く強いものでもあった。
「なので、もう少し掘ってみて、なにか起こるか、出て来るのを待ちましょう」
そうして――、
*
そう。そうして例えば、その家のキッチンには、ずうっと使われていないハイライトのライターや、すこし気取ったウイスキーグラスなんかが置かれていた。
そうして、それは例えば、どうしてこれらグラスやライターが、ずうっと使われていないか、どうしてずうっと使わないことにされたか、その理由を作者である私や読者であるあなたは憶えているかも知れないが、使わないと決めた当の本人、この家の主人はすっかりそれを忘れていた。
なのでそのため彼、祝部優太は、お茶を飲もうとそこに立ったとき、まずはグラスを、つぎにライターを見付け、一瞬、途方もなく大きな月と、その下を行く旅の商人、それに年老いた司祭なんかのシーンを想い出すことにもなった。が、もちろん、それでも彼は、それらもすぐにすっかり忘れ、代わりに、その家のリビング、すっかり修復の終わった壁や床、買い替えられたソファやテーブルなんかに意識を移してもいた。
昨日? 先日? 一週間前? に起きたこの家の火災は、幸いボヤで被害も軽微、結局火元は分からなかったが、会社の伝手で呼んだ業者は格安かつ優秀、まるでそんなことがあったとは想えないくらいに、すぐに即日、元の状態へと戻してくれた。もちろんそこには、直し切れない細かな焼け焦げなどもあるにはあったが、それらも結局、深山千島の能力の余波で、彼や、彼の妻の守希には気付けない、気付いても気に留めない状態になってもいた。
「どうしたの?」守希が訊いた。ソファにすわりこっちを向いて。彼女はいまでも美しかった。「なんだかぼうっとしてない?」
「え?」優太は応えた。意識が必死にこちらに留まろうとしている感じがした。「あ、いや」が、それもすぐには気にならなくなった。「なんでもない。ただ、ぼーっとしてただけだよ」
「ほんと?」
「ああ。色々あったし、疲れてるんだな」
「うん」守希が応えた。色々あったものね、とそれから、「おいで、マッサージしてあげるわ」
それから彼女は、彼をソファに座らせると、あまりに固い肩と腕、それから、あまりに疲れた頬や目のあたりを優しくほぐしてやった。優太は、そんな妻の優しさ、友情にも似た愛情のようなものを、その両手から感じ取ると、そのまま、自分でも気付かぬうちに、
「ありがとう」と、ついつい自然につぶやいていた。「ごめんね、守希さん」
ひとつ目の言葉について夫婦は、どちらもすぐにその意味を理解し分かったが、ふたつ目の言葉については、言った側も言われた側も、その意味がよく飲み込めなかった。何故なら彼らは、娘のことをすっかり忘れ、想い出すことが出来なくなっていたからである。優太がくり返した。
「ごめんね、ごめんよ、守希さん」
そうして、それからしばらくして彼は、寝室に行こうと、ひとりで二階に上がった。が、何故だかふと、寝室とはちがう別のドアを開いた。
そこは、彼らの物置き部屋だった。
いや、正確にはそこは、火事の修理の合間に改装された、彼らの娘の部屋であった。
ベッドは捨てられ、机はなくなり、壁のポスター、人形類、彼女と過ごした時間や記憶の断片のようなものはすべて、風と一緒にどこかへ運ばれ、代わりに無粋な家具や段ボールがその部屋には詰め込まれては押し込まれていた。窓の外では途方もなく大きな月が宙を覆っていた。
壁の隅に、小さな子どもが付けたような、ひとつの傷が残っていた。消し切れていない落書きと一緒に。
「ひかり?」と彼はつぶやいた。さきほど止めたはずのなみだが、ひと粒だけ、彼の頬を伝って行くのが見えた――がもちろん、彼女のことを想い出したわけではなかったが。いまは、まだ、もちろん。
(続く)




