その2
承前。
「うちは子どももいませんし、夫婦ふたり、家内にはいつまでも元気でいてもらいたいですよ」
とそうして優太は、二三事務的な確認をしてから、友枝久香のオフィスを出て行った。とおくに消える彼の足取り――それは優太自身も気付かぬほどの暗さ冷たさを含んでいたが――に久香は微笑むと、静かに席を立ち、優太が出て行ったのとは別のドアから隣のミーティングルームへと移動した。部屋はうす暗く、エアコンは控え目で、男がひとり、壁にもたれて座っていた。その壁は、彼女のオフィスの側にあった。彼女は訊いた。
「どうでした?」知ってる答えを訊くように、「彼、ちゃんと忘れていたかしら?」
男は、むすっとした顔で久香を見据え、すぐにそらした。口はへの字に結ばれ、イスから立つそぶりも見せなかった。不満気なため息と一緒に反対側の壁を見詰めた。久香が訊いた。もう一度、
「どうでした?」と声の調子はまったく変えずに、「きちんと忘れていたかしら? 彼? ねえ、左――」
「忘れてましたよ」男は答えた。うでを組み、足を小刻みにゆすりながら、「きっちり。娘さんがいたこともね」
「そう」久香は微笑んだ。「それなら安心ですね」答えを知る学校教師が出来の悪い生徒の答えを聞いた時のような微笑だった。「今日はどうもありがとうございました」
それから彼女は戻って行った。報酬は足の付かない現金だった。男、左武文雄は、久香の声のちからに負けそうになったが、どうにかそれを押し返した。久香は少しおどろき、すこし不満そうだったが、それでも最後は微笑んでいた。左武文雄は、ひとつ舌を打ってから、そのまま部屋を出て行った。彼に子供はいなかったが、それでも優太に同情した。
そうして――?
*
「うん。でもまあ安心して。これならきっと想い出せるから」
そう。そうして、この数日前――と言うことは、前回(第十七話)ラストの高速道路の上でと言う意味だが――例の赤毛は話していた。優太に向かって、
「僕も最初は時空間コヒーレンスと彼らがもたらしている重力歪み、それに確率論的フラックスのせいでかなり手こずり戸惑ったけどね、この前見た姪御さんと司祭さまの『愛の力』……って言うとお父さんも困るだろうから……そうだな。前世? 前々前世? とかからの因縁? 奇縁? 結び付き? つながり? による記憶の取り戻しを観測して、おおよそのやり方が分かったんだよ」
とずいぶん早口に。それから、
ビ、ジー、
ビジジジジ。
ビ、ジー、
ビジジジジ。
と先ずは優太を、いつものレンチで全体スキャン。それから、
チ、チー、
チッチキ。
チ、チー、
チッチキ。
と、ひかりの身体もくまなくスキャン。更には、
「あ、そのクマちゃんかわいいねえ」
と、ひかりのぬいぐるみを羨ましそうに見てから、
ジーーッ、ジッジッ、
ジーーッ、ジッジッ、
ジーーッ、ジッジッ、
ジジジジジッ。
と、その場にいた最後のひとり、深山千島の身体もスキャン……し始めたのだが、それが終わるか終わらないころに、
ジ、ジ?
ジ、ジ?
ジ、ジ、ジ、ジ?
ジ、ジ、ジーーーーーーーー? ジジッ。
とレンチが変な音を出し始めたので、太陽フレアや黒点位置、それに今いる緯度経度、それに伴う重力加速度の変化等々を考慮に入れて再計算。そうして、
「なるほど。すると君が、『記憶の魔女』だね」と軽い調子で深山に言った。「ただ、本当のところが分かってないから、こんな感じにくんにゃらがっているわけか」
「は?」深山は訊いた。なんだかバカにされた気になりいらだって、「あんた、さっきからいったいなにを――」
しかし、
「ま、おかげで助かるよ」と気にもしないで赤毛は続ける。彼女の言葉をさえぎって、「これなら、『この宇宙』の繋がり分だけでも記憶は呼び戻せるからね」
「は?」ふたたび深山は訊いた。が、「だから一体、あんたはな――」
「もちろんこれも、さっき言った姪御さんと司祭さまの『愛のちから』のおかげだけどね」と、ふたたびこちらもさえぎられた。「あ、って、ごめん、お父さん。でも、他にいい呼び方が想い付かないんだよ」
そうして、そのため、
「ああ! もう!」と、とうとう彼女は叫んだ。赤毛に詰め寄り、「話が! 全然! 分からないのッ!」
話はこうだ。
「このお話の作者さんもどこかで書いてたと想うけど、そもそも、記憶が脳の中だけにあるってのは誤解なんだよ。それは手や足、腰、胸、胃や心臓、君のからだのありとあらゆるところに宿っているし、もちろん身体以外の、お気に入りのコップやマフラー、仕事用のパソコンやイス、昨日見付けたアベリアの庭なんかにも残されている。それにもちろん、いま、こうして僕と交わしているこの会話――それはつまりは、これを読んでいる読者さんの意識にもって意味だけど――にも含まれていくことになり、それらすべての総和が、君本来の『記憶』になるんだ」
「は?」と深山は戸惑い訊き返すが、「え? ってそれってつまり――」
「そうそう。つまりはそういうこと」と早とちりして赤毛は進める。「君はいま、相手の記憶を、相手の脳に手を加えること“だけ”でコントロールしてるだろ?」
「え? あー……」と深山。「ど……うでしょうかねえ?」と突然敬語になり、「あまり……意識はして来なかったような……」
「だろうね」と赤毛は続けた。「せっかくの能力も正しい知識や見え方を持っていないと十分には動かせないってことなんだろうけど」と軽く彼女をディスってから、それでも、「それでも結局、今回はそれがよかったよ」
「よかった?」
「君がこれまで操って来たのは、記憶そのものではなく脳の一部。記憶を引き出す、呼び戻すための機能のひとつ。言ってみれば脳の中にある引き出しだけど、君はその取っ手にカギをかけたり、その上から別の記憶――うすっぺらいラベルやステッカーのようなもの――を貼り付け、あたかも『記憶そのもの』を操り改竄しているように見せかけていたし、君自身もこのトリック? 誤魔化し? に気付いていなかったんだよ。だから――」
「あっ」とここで深山は叫んだ。こんどは小さく。これまであったモヤモヤが解消したのか、「じゃ、じゃあ、守希さんや部長も?」
「うん? あ、ああ、そうだね」赤毛は答えた。「本物の愛や絆にラベルやステッカーが勝てると想うかい? 君は『記憶そのもの』には手を付けていない――今後もそれで頼むよ――あとは、貼られたラベルを引きはがし、カギを開けさえすればいい」
それから彼は、ここで突然向きを変えると、
「と言うことでお父さん!」と突然優太に声をかけた。
「なに?」優太は応えた。あせりながら、「お、おれ?」
正直、赤毛の話の半分も彼には飲み込めていなかった。が、
「うん。どうするかは娘さんとよく話して欲しいんだけどさ」それには構わず赤毛は続ける。「結局いちど、記憶は消えたように見せた方がいいんだよね?」
「え? あ、ああ、そうだな」ここの部分はなんとか分かった。「もちろん。そうしないと俺もひかりも――」
「うん。だったらやっぱりさ」赤毛は続けた。優太の言葉をさえぎりながら、「こちらの――名前なんだったっけ?――足のきれいなお姉さんにカギをかけてもらってよ」
「は?」優太は訊き返した。「しかし、それだと――」
「大丈夫、大丈夫」赤毛は答えた。「おおよそのやり方は分かったって言っただろ? なにかのきっかけですぐに想い出せる、カギを外せるようにしてあげるからさ、だから決めてよ」
「決める? 決めるってな――」
「合い言葉とか記号とか、君たち親子、君たち家族の間で伝わるなにか。ドラマチックなのにしてよね、その方が想い出したときのエモさがちがうから」
そうして――?
(続く)




