その1
森のなかは相変わらずやわらかな雰囲気だったが、どこか奇妙な緊張感は続いていた。森の奥からと言うよりは、どこかとおく離れた別の場所から聞こえる、なにかの糸の切れるような感じで。
「あ、」と山岸まひろは声をあげた。ちいさく。それからすこし非難気味に、「ちょっとミスターさん、どこ行ってたんですか、また突然消えちゃって」
「ああ、ごめんごめん」赤毛のミスターは答えた。大きな樫の木陰から、「ちょっとまた呼ばれちゃってね」
「呼ばれた? 誰にですか?」
「あー、呼ばれたって言うか、気付かされたって言うか、いきなり飛ばされたって言うか」
「は?」
「まあ、でも、これでしばらくあっちの方へは呼ばれることはないだろうから、安心して」
「すみません。話がよく見え――」
「ないよね。仕方ないよ、僕もだんだん見えなくなって来てるから。想い出せなくなってるってのが正しいかもだけど」
「はあ」
「ま、でも、これでつぎ呼ばれるとしたら別のところだろうし、そのときは君をのこして勝手に行ったりはしないよ」
「はあ、それは助かりま――」
「で? どうだい? 『リスト』の方は? 進んでる?」
「え? ええ、言われたとおり上から順に能力を試してはいますけ――」
「あー、いいねいいね、このチェックが確認済みってこと? こっちのバッテンは?」
「あ、それは、能力のコピーが出来なかった人たちで――」
「桑原敏夫……段野耕作……藤間和雄……? なんだろ? 理由は分かるかい?」
「いや、とくに変わったことは……」
「ふーん? 他の人のは上手く行っているんだね?」
「ええ、正しいかどうかは分かりませんが、一応、なにかしらの能力は」
「ひい……ふう……みい……うん。まあ、これだけあればいまのところは十分か――まひろくん!」
「はい?」
「このバッテンの人たちについては、僕の方で調べておくよ」
「あ、はい。お願いします」
「で、くり返しになるけど、次に『呼ばれる』ときは、君をのこして行ったりはしないよ」
「あ、はい、それもよろし――」
「何故なら次の場所へは、君も連れて行くことになるだろうからね」
そうして――?
*
そう。そうして、林のなかは相変わらず穏やかな雰囲気だったが、どこからか冷たい空気が流れ込んでもいた。誰かのなにかのむせび泣きと言うよりは、悲しい時間を包み込む、不思議なギターの音色のような感じで。
「あれ?」と佐倉八千代は声をかけた。いつもの調子で、それでもどこか、遠慮気味に、「なにかあったんですか? おばあさん?」
『え?』山岸の家の祖母は答えた。『あ、ああ、ごめんごめん。ちょいとぼーっとしてたね』と遠く西の方へと向けてた顔を八千代のほうへ戻しながら、『ちょっと、気になる声が聴こえたもんでね』
「声?」不思議な顔で八千代は訊いた。しかしそれでも無自覚に、「声なんて聞こえました?」
『え?』と山岸の家の祖母は訊き返しそうになったが、『あ、いやいやいやいやいやいやいや』すぐに片手を左右に振ると、『流石にこれは、お嬢ちゃんでも聞こえないだろうよ』
「は?」
『と言うか、ひょっとして、なにか感じてたりするのかい?』
「なにか?」
『誰かの声――てはないんだろうけど、それに近いなにか、風とか音とか空気の揺らぎとか』
「あ、はい、それは」八千代は答えた。それでも無自覚無意識に、「あっちの」と西の空を指しながら、「ちょうどおばあさんが見ていたのと同じ方角から、冷たい風? 音? 悲しい時間? みたいなものが」
空はたかく、すっかりと晴れわたり、どこかの森が大きく風で揺らいでいるのが分かった。
『ほお』と山岸の家の祖母はつぶやいた。『まさかこれにも気付くなんてね』と若干おどろいた様子で、『修行のおかげか元々なのか……』それからすこし考えて、『お嬢ちゃん』
「はい?」
『ミスターさんから聞いたよ。エマちゃんとふたり、なにかあたしに話したいことがあるんだろ?』
「え? あ、はい。実は――」
『あ、待って、待って』
「はい?」
『“エマちゃんとふたり”話したいことがあるんだろ?』
「え? あっ、そっか」
『ふたりで話すと決めたんなら、勝手に話しちゃだめだろ? あの子も呼んでおいで』
「あ、はい」と彼女の言葉に八千代は、そのままそこを離れようとした。が、すぐにたちどまると、「あ、でも、おばあさん?」
『なんだい?』
「“あっち”は大丈夫なんですか?」とふたたび西を指差し訊いた。
『え? ああ』祖母は答えた。『孫の……ひ孫のことでちょっと気になることがあったけどね。あっちはあっちで、まあ、なんとかなったようだね』
そうして――?
*
そう。そうして、彼女のオフィスは相変わらず冷たく暗い雰囲気だったが、彼女、友枝久香の声はどこか明るく楽しそうだった。新しい服を買って貰えた少女と言うか、すでにそれには着替え終え、いまは夏のパレードを待っているといった感じで――それで?
「それで?」と彼女は訊いた。「奥さまの方は? 大丈夫でした?」
「ええ、はい、おかげさまで」と祝部優太は応えた。自分のメガネのフレームが変わっていることには気付いてもいない様子だった。「記憶がまだすこし混乱しているようですが、検査の結果はどこも悪くはないようで、しばらく安静にしていれば治るそうです」
「いろいろストレスもあったのでしょうね、おうちの火事とか」
「ええ、でも、それもボヤですみましたし、倒れたと聞いたときはおどろきもしましたが、いまではすっかり元気なようで――」
「休みたいときはいつでも言って下さいね。祝部さん、有休まったく使っていませんし」
「ええ、はい、そう言って頂けると助かります」
「祝部さんに倒れられたらこちらも困りますし、くれぐれも無理だけはしないよう、とにかく今は、奥さまを大切にしてあげて下さい」
「ええ、はい、それはもう」優太は答えた。「うちは子どももいませんし、夫婦ふたり、家内にはいつまでも元気でいてもらいたいですよ」
(続く)




