その14
実際のところ、祝部優太は怒っていた。いつも。あの温厚な、いかにも人畜無害そうな笑顔の下で、ずっと。
高校時代の友人は首をくくって死んだ。
そいつは医師になるよう親に言われていたが、どうしても学力が追い付かなかったんだそうだ。
大学時代の友人は心を壊して消えた。
クソ野郎ゴク潰しと言われ叫ばれ勤めた会社で、不正の責任をすべて負わされどこかへ消えた。
痛みに耐えろと言われた、言われ続けた。
言い続けた奴らの枕は高く、毛布は温かかった。痛みを伴う構造改革? 途絶えたのは善良な人々の声と希望と消息ばかりだった。
「くそッたれが」祝部優太はつぶやいていた。ずっと。こころの中で。「あいつを撃った時の反動が、いまもこの手に残ってやがる」
そう。実際のところ、祝部優太は怒っていたのである。いつも。あの温厚な、名前のとおりの、いかにも優しそうな微笑みの下で、ずっと、ずっと、ずうっと。
なにを間違った?
それが分かれば苦労はなかった。
妻のことを想った。
子供が出来ないと知った時の彼女の手の冷たさと、そこに浮かんだ柔らかな月を。はじめから届かない幸福を想って涙を流したあの夜のことを。
娘のことを想った。
あいつは希望だ。地球や人類やクソッたれ社会は関係ない。俺たち夫婦の娘で希望だ。ひとのかたちをしたひかりだ。
「くそッたれが」祝部優太はつぶやいていた。ここでもまた、「赤ん坊のあいつを抱いた時の重みが、いまもこの手に残ってやがる」
血のつながりは関係ない。道を、道しるべを、残してやらなきゃいけない。自分ほど娘を愛している父親はいない。
「やあ」祝部優太は言った。今度はちゃんと声に出して、いつものあの、やさしいほほ笑みと一緒に。「残して行って悪かったな、戸柱くん」
青年は立っていた。うろたえながら。リビングの真ん中で。カーペットは焦げ付き、ソファやテーブルの一部はかなり溶け出していた。守希に怒られるな、そんな風に想った。
青年の両手は青く、周囲の肌は赤黒く変色し始めていた。自室に置いた拳銃のことを想い出した。が、しかし、途端におかしくなり、すぐに忘れた。部屋の隅に、娘のぬいぐるみが落ちていた。幸い、焦げてはいないようだった。
「ああ、あったあった」彼は言った。なみだがこぼれそうだった。「これを忘れて来たらしくてね」
あいつはこれがないと眠れないし、このクマちゃんとはたくさんの冒険をして来たんだよ、と。
「なあ、戸柱くん」彼は続けた。小さなクマを拾い上げながら、「一緒に出ないか」声も、手も震え、顔もきっと引きつっていただろうが、それは向こうも同じだった。「夏はそろそろ花の盛りだ」どんなに謝っても謝り切れないが、それでも彼は謝った。「本当に、悪かったよ」
*
ミスターが到着したとき、彼らは静かに混乱していた。いまがどの位の危険度なのかを、彼らはよく分かっていなかったから。
あ、いや、確かに、戸柱恵祐の危険性は――彼が放っていた熱や、それで深山に深手を負わせたことなどから――ある程度は感じ取っていたかも知れないが、その後ふたたび優太が家に戻って行ったことや、各々の想像力の欠如などから、例えば守希なら、家が燃やされる程度の危険――消防車を呼べば収まる程度の危険――くらいに考えていたし、例えばひかりなら、あくまで人に向けて放つだけの能力――優太が「ちょっと止めて」帰って来れる程度の能力――くらいに考えていた。
あまりに楽観的と言えば楽観的だが、恵祐の潜在能力の深さを理解している優太は、微笑みで口を閉ざしたまま家の中へと消えて行ったし、深山は深山で、依然意識朦朧とし、その恐ろしさを――町ひとつ消えてもおかしくない恐ろしさを――彼女たちに伝えられる状態になかったことを考えれば、仕方がないのかも知れない。
また、そうして、恵祐の能力をよく見て来たはずの左武文雄も、危険性への理解という点では、彼女たちと大差なかった。まさか人間の身体が核分裂反応を始めているとは想いも付かなかったからであるし、きっと彼は、核分裂反応がなにかもよく分かっていないだろう。
がしかし、と同時に彼は、優太が自分に、『出来るだけはやく、とおくへ』彼女たちと逃げるよう伝えて来たときの切迫感、緊張感を聴いてもいたので、先ずは消防に電話を掛けるだとか、在宅中かも分からない近隣住民に声を掛けてまわるだとか、そんなある意味倫理的・牧歌的な行動を取る余裕・必要があるのかないのかからよく分からなくなっていた。
そう。つまりはそうやって、彼らは混乱していたのである。静かに。どこに逃げ出すこともなく。祝部家の前で。そうして、
「あれ?」とそんな彼らにミスターも混乱させられることになった。静かに。「皆さん、大丈夫なんですか?」
結局、手ごろな秘密道具が見付からなかった彼は、右手にいつものラチェットレンチを、左手に真っ赤な消火用バケツだけを持ってここにたどり着いていた。バケツの中身はもちろん空である。
「誰だ?」代表して左武が訊いた。不思議な顔で、「あんた?」
とっさに彼と守希たちの間に立つ格好になった左武だが、それはあまりにミスターの格好が不審者然としていたからである。ミスターは応えた。
「“僕はミスター”」と格好のひとつでも付けたいところだったが、ジジジジジ。とレンチは異常値を出し続けているし、この辺りの時空が歪んでいるのは計らなくても分かる。そのためもう一度、「大丈夫なんですか?」と。静かに混乱したまま、「皆さん、大丈夫なんですか?」
「いや、あまり大丈夫でもないが……」左武は応えた。倒れたままの深山や混乱しているひかり達を目で指しながら、「ここから離れるかどうか考えているところだ」
とここでミスター、左武の視線の先にいるひかりの顔を認めるや否や、
「あれ?」と気の抜けたような声で訊いた。「ひょっとして姪御さん?」
「は?」ひかりがふり返った。
「あ、やっぱり」続けてミスターは訊いた。「すると文化祭では無事助けられたんだね」
「は?」ひかりは訊き返した。とても不審そうな顔で、「誰なの? あなた」
「“僕は、」とそうして彼は、いよいよ名前を言い出しそうになってハッとした。「あれ?」
あたりを見渡しキョロキョロキョロ。ようやくここが何処なのか理解したらしく、
「あれ?」と続けてひかりに訊いた。「君のお父さんは?」
*
優太の、戸柱恵祐に対する謝罪と説明は続いていた。
かなり弁解染みてはいたが、それでも正直に。彼が、彼の会社が、恵祐にしてしまったことを謝り、彼を混乱させてしまったことを謝り、逃げ出した彼を見付けることが遅れたことを謝り、そうして、彼の母親の死に心からのお悔やみを言い、その責任の一端が彼らにあることを認めて謝り、そうして、それから、それでも、この爆発をどうにか止めて欲しいことを、どうにか彼にも生き延びて欲しいことを、そうして、その為の、能力を制御するための力が、各々の能力者には備わっているはずだと言うことを、彼は、恵祐に説明していた。熱さで倒れてしまいそうだったが、声は荒げず、微笑みは忘れず、出来得る限りの情理を尽くして、手の中のぬいぐるみと同じくらいの優しさを持って。能力のない彼に出来ることと言えば、これくらいしかなかったから。
*
「は?」とそうしてミスターは訊き返した。「ひとりで?」
ジジジジジ、ジジジ。
ジジジジジ、ジジジ。
手の中のレンチはひき続き異常を報せ、空間の歪みは祝部家を中心に更に大きくなっていた。
「なにも持たずに?」続けて彼は訊いた。「君のお父さんに能力はないだろう?」
「でも、止めて来るって」ひかりは答えた。「いつもみたいに、お仕事にでも行く感じで」
ジジジジジ、ジジッ。
ジジジジジ、ジジッ。
改めてレンチを見た。熱エネルギーの放出はまだ小出しだったが、連鎖反応自体は確実に始まっていた。止められるはずがない。少なくとも、彼の理解の範囲では。
「ダメだ」ミスターはつぶやいた。「ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ」
「え? なに?」ひかりが訊き返した。「いったいなんなの? そんなに悪いことが起こっているの?」
この彼女の問いに、ミスターはすぐには答えなかった。答えられなかった。代わりに、ふらふらふらと、家の中へと向かおうとし、それでもすぐに立ち止まってはふり返り、ひかりの肩をつかんで言った――いいかい、お嬢さん。
「いいかい、お嬢さん。もうすぐこの町はなくなる。爆発が起きるんだ。この惑星で言うところの『広島型原爆一個分』ってやつさ」
それから少し考えて、左武と守希、それに動けない深山を順に一度見てから、
「いますぐ逃げるんだ。お母さんとお姉さんを連れて。出来るだけ速く。出来るだけ遠くに」
「で、でも」ひかりが口をはさんだ。「お父さんは?」
間に合わないかも知れない――が、この言葉を彼は飲み込んだ。
「お父さんは僕が連れて来るよ」相も変わらず、なんにも手段を想い付かないけど、「だから君らは先に逃げて。絶対にうしろをふり返らずに。お父さんは僕が必ず連れて戻るから」
そうして彼はほほ笑むと、左武にひかりを連れて行くよう目で合図しようとしたのだが――これが悪かった。何故なら、
ダッ。
と突然、彼女が走り出したからである。
え?
とミスターは驚いたが、彼は分かっていなかった。自分のミスに。ひかりを安心させようとしたほほ笑みが問題であったことに。
何故なら、そのほほ笑みには、いつもの通りのウソがいくつも含まれていたからだし、ひかりも、そのウソを見抜けないほどの子供ではもうなかったからだし、だからこそ、彼女は理解したからである。いつも騙されていた、優太のあの、ほほ笑みの意味に。
(続く)




