その8
『ああ』と左武文雄が心の中でつぶやき、『そう言えばこの母娘にも、もともと血のつながりなんかなかったんだよな』
『ああ』とそれに呼応するように戸柱恵祐は目を覚ました。『ここは?』とじわりとまぶたを上げながら。
ソファに付いたコーヒーの染みが見えた。この家の住人の匂いがした。毛布の下の身体が自分のものではないように感じた。燃えるように熱く、と同時に凍えるような寒さを感じた。
『いまの夢は?』そう考えようとして、この家の母親が何やら叫んでいるのが分かった。せめて身体を拭いてあげてとか、着替えなら主人のがあるわとか、なにかお薬くらいはとか、いまにも泣き出しそうな声だった。しかも、その声は、どうやら自分のことを心配してくれてのものだった。戸柱恵祐は想った。
『ごめんなさい』と。『ごめんなさい、お母さん』
そうして、それから彼は、燃えるような熱さと凍えるような寒さが身体中を駆け巡り、その節々は重く鈍く鋭く痛んでいたものの、それでもそこに起き上がった。ソファの上に。ガバと。勢いよく。もう少しでよろめき堕ちてしまいそうだったが、どうにか持ち直した。
「あっ」と先ずはこの家の娘がそれに気付き、
「うん?」と左武文雄がふり向いた。「おまえ」とそう言いかけて、
「大丈夫なの?」とこの家の母親に言葉を取られた。恵祐は応えた。
「大丈夫ですよ」ともちろんカラ元気だった。「ちょっと眠ったら、すっきりしました」身体は今にも、灰になって崩れ落ちそうだった。「ご心配おかけしました、お母さん」
習い性と言ってしまえばそれまでだが、彼は、実の母親との生活で、末期癌だった彼女の介護で、それに付随する彼女の譫妄と被害者意識への対処で、自分は他人からの心配を受けられる人間ではないと、自分にはそんな価値も権利もないと、はっきりと、細胞レベルで、信じ込むようになっていたのである。いや、あるいは、こことは違う宇宙での記憶が、罪の背景が、彼をそこに閉じ込めたのかも知れないが。彼は続けた。
「そんな心配されなくても大丈夫ですよ」と青白い顔のまま、笑顔で、傾きながらも真っ直ぐに、「だから、そんな」――泣かないで下さい、お母さん。という言葉は必死で飲み込んだ。
「で、でもあなた」と守希は何事かを返そうとしたが、ここで、
カチャッ。
と玄関扉の開く音がして、彼女の言葉の続きが語られることは結局なかった。
そうして――?
*
「リストは手に入れた」と安堂夏彦は言った。「とは言っても一部だがな」
結局のところ、恵祐を病院へ連れて行ったり、薬を飲ませてはどうかという守希の提案は却下された。病院に連れて行くだけの余裕が彼らにはなかったし、解熱剤などの薬が恵祐の身体や能力にどのような影響を与えるか誰にも分からなかったし、そうして何より、
「大丈夫ですよ、僕なら」と恵祐本人が頑なに、病院も薬も不要だと言い張ったことが一番の理由であった。「それより早く、ここを出ましょうよ」
きっと彼は、これ以上ここの家族に迷惑は掛けられないと考えたのだろう。身体はふら付いていたが、顔と声は努めて明るくなるよう注意していた。
「リストの他の部分」安堂は続けた。そんな恵祐の気持ちを理解しつつも仕方がないと無視しつつ、「それを入手したり、そこから俺たちの名前を消したりするには、どうやら、都内の本社まで行かないといけないらしい」
前にも書いたが、安堂夏彦の目的は、優太の会社への、天台烏山への復讐であり、その為の一段階として、仲間を集めながら、彼らから身を隠したいというのが、彼が『リスト』にこだわる理由だった。『リスト』があれば、仲間となる候補者を探し出せるし、また、そこから彼らの名前を消すことが出来れば、身を隠す手助けにもなるだろう。がしかし――、
「しかし、『リスト』だけでは俺たちを見付けられないんだろう?」左武が訊いた。「『リスト』にあるのは名前と住所だけ。いまみたいに身を隠している分には問題ないんじゃないか?」
たしかに。
どのようにしてこの『リスト』が作成されているのかは分からないが、その情報から最初のコンタクトは出来たとしても、その後、いまの安堂や恵祐のように、居場所を転々としている者たちを追うことは出来ないのではないだろうか?
「それが、そうでもないようでね」安堂が答えた。実際彼は、何度か見付けられては逃げて来ていたし、また、「しかも俺は、『剪定』の対象に確定してしまっているようなんだ――なあ? 祝部さん」
「そこまでは知らんよ」優太は答えた。「取り敢えず、俺のところに話は来てない――なあ、やはり二人は解放してやってくれないか?」
彼はいま、手足を縛られたままの守希とひかりの間に座り、大丈夫だ、どうにかする。と彼女たちを励まし、またこんな事態に巻き込んでしまったことへの謝罪を行なっていた。彼は続けた。手首と首のピアノ線を安堂に見せながら、
「知ってることなら全て話したし、こいつも付いてる。人質って意味なら俺ひとりで十分だろ?」
これらのピアノ線は、優太が不審な動きを示した場合、すぐに彼を締め上げ傷付けられるよう、安堂が能力で付けたものだとは、前にも書いたとおりである。優太は続ける。
「二人は何も知らないんだ。あんたらの邪魔にはならないさ」
しかし、
「いいや」と安堂は即答する。「『センサー』の話が途中だろ?」
「ただの噂だよ」優太は応えた。「社内にあるただの噂。そんな『センサー』なんてもの、あまりに都合よすぎるだろ」
「それでもだよ」安堂が言った。「それでも、その話には妙な納得感があった。噂でいいから聞かせろ」
そう。
それは会社の、優太の会社の限られたメンバー――それはつまり『能力者』絡みのメンバーという意味だが――の間で時折り交わされる噂話であった。優太は言う。
「たしかに。あんたみたいな人間や、逃げ出したメンバーなんかを探すのに、上から指示が出ることはあるさ、『この辺りを探してみろ』ってな」
がもちろん、その指示が当たらないこともあれば、指示自体出ないこともある。
「実際、俺の部下が逃げ出したときも、しばらくは何の指示も情報もなかったしな」
とこれは、例の小紫かおるが失踪した時の話だが、それでも、
「それでも」とここで安堂。「それでもしばらくしたら、新しい部下が来るか来ないかのタイミングで指示があったんだろ?」
すると優太は困った顔で、「まあな」と言って続けた。
「しかもこいつが、かなり的確な場所を示していてね」
いろいろ調べて行くと、他の部署でも似たようなケースがあったそうで、
「そこに出て来た噂が『センサー』」
どんな機械なのか装置なのか、アルゴリズムなのかは分からないし、諸説あるようだが、
「その指示を出すのが上の限られた人間だけで、しかも精度が異様に高い」
よほど高性能な、能力者探索用の『センサー』を会社は作り、持っているのではないか?――と関係者の間でそんな噂が流れるようになったらしい。しかも――、
「しかも」とここで優太。すこし苦笑し、「最近そいつが古くなって精度も落ちて来たようで、それで『新しいセンサー』を、その『古いセンサー』に探させているとかいないとか――まあ、そういう、冗談にしては面白くない話も流れてはいたかな」
たしかに。以前、消えた山岸富士夫を彼と深山に探させたときの指示はかなり曖昧なものだったし、それにそもそも、そんな便利な道具があるのなら、彼らに富士夫を探させた理由がよく分からない。
「古くなったら直すなり新しく作り直せばいいだけで、『探させて』とか、これもよく分からんよな」
(続く)




