その6
せまい事務所には机と椅子が三脚ずつと、業務用のノートパソコンが三台ずつ置かれていた。とは言っても、そのうちひと組は現在使用者不在のままで、もうひと組はほとんど――ソリティアかマインスイーパーをする時くらいしか――使われることはなかった。そうして残ったひと組、一番窓際の席とパソコンが優太に支給されているものだった。
「リストだな」彼は言うと、眼鏡を外し、右手の親指をテンキー下の小さなへこみに当てた。一秒、二秒、三秒……、
「おい?」不審に想った安堂が優太に声をかけようとした瞬間、
ビーッ。
と小さな音がして、モニター上のカメラから赤と青の混ざった光が放射された。優太の瞳をスキャンした。先ずは右目を、それから左目を。
「これでいいか?」優太が訊いた。外しておいた眼鏡を掛けて、「一応、会社が把握――俺に教えてもいいと考えてる人たちのリストだ」
それは、無粋な表計算シートの上に、連番と人の名前、それに大まかな住所が載せられただけのもので、例えば罫線や着色などで見た目をよくするとか、例えば備考欄を設け補足情報を書き込めるようにするとか、そういう工夫はされてはいなかったし、こちらから追加することも出来なかった。ただ、樫山ヤスコの持っている『リスト』のように、日本語や英語、中国語やロシア語、あるいはラテン語なんかが入り交じったりはしておらず、きっと神経質な誰かが丁寧に推察・翻訳し、日本語(一部外国語)に揃えてくれたのだろう。フォントの形式やサイズ、半角・全角ルールの統一はもちろん、住所表記の修正や見やすい位置での改行なども丁寧にしてくれていた。がしかし、
「これだけか?」と安堂も訊くとおり、「もっと多いと想っていたが」
それこそヤスコの持っている『リスト』に比べると、そこに載せられた人々の数は多くて半分か三分の一、いやもっと少なかったかも知れない。と言うのも、
「だから言ったろ」そう優太も答えるとおり、「俺に教えてもいいリストだって」
そのリストにある住所はすべて――一部葛飾や江東区のものもあったが――基本的に、この地域(東京都北西部)を中心に、その周辺エリアのものばかりだったからである。
「あ?」と安堂。優太からマウスを奪うとスクロール。先ずは自分や戸柱、それに左武の名前がないかを探し、「なるほど、あるにはあるな」
とそれから他に知った名前がないかを探し、段野耕作の名前を見付けた。
「ちっ」とひとつ舌を打ち、「更新してねえじゃねえか」と悪態を吐いた。住所欄にも目を通し、「あんたの担当エリアってことか?」
「知らんよ」優太は答えた。「そうかも知れんし、単純にこのエリアに偏っているだけかも知れん」他の『担当』が何をしているかはあまり知らないし、「その辺は上の者に訊かんと分からんが」まあ、それでも、「いないって考える方が不自然かもな」
「ちっ」とふたたび安堂。「まあいい」と続けて胸ポケットに入れておいたフラッシュメモリを取り出した。「取り敢えず、ある分だけでもコピーだ」
が、それをパソコンに挿し込もうとした瞬間、
「お、おい、なにをやってるんだ」その手を優太に止められた。
「なにってコピーだよ」安堂は答えた。「ひと目見て全部覚えられると想うか?」
「え? いや」と優太。しまったという顔で、「こいつは閲覧のみだ」
「なに? 印刷は?」
「出来るワケないだろう」何重にもロックがかかっているし、「無理にやろうとすれば、パソコン自体が壊れるはずだ」
もちろんこれは、優太も上から聞いているだけで、実際に試したことはないのだが、それでもこちらはコピー不可、編集・削除その他の権限が彼にないのも確かなようで、
「もしやるなら、本社の、しかるべき部署にいかないと出来ないはずだ」そうして、「リストを記録したいなら、せいぜいメモるか、スマホで撮影するくらいだな」
そうして――?
*
そうしてのんきなことに祝部守希は、台所にすわる男たちをながめながら、買い物リストを作っていた。もちろん手は動かせないので、声には出さずに頭の中だけで。
卵、お醤油、お料理用のチーズ。お風呂の洗剤にトイレットペーパー。お野菜は安くなっているものから適当に。お肉もたまには贅沢したいわよね、優太くんのためにも。
と、そんな風に考えてから、その流れのまま彼女は、「あの子、かわいそうに……」とそんな風にも想った。この「あの子」とは、もちろん戸柱恵祐のことである。
なにに囚われているのかは分からないが、青白く、震え、ひどく寒そうに、しかし今にも爆発しそうに見えた。お味噌汁を飲んでくれるとは言ったが、それもたったのひと口だけ。その後はずっと前を向き、あらぬ一点を見詰めては小刻みに揺れている。隣にすわる刑事の声にも適当な相づちを打つだけだった。
正直、腹が立った。
「ねえ」とうとう彼女は言った。「ねえ、刑事さん」と。いまの自分の状況も顧みず、「すこし、横にしてあげた方がいいんじゃない?」
夫と出て行った男は論外だとして、どうやらこの刑事が彼のことを心配しているのは確かなようである。であるが、
「ふたりが戻って来るまでにはまだまだ時間がかかるでしょうし」ほんと男ってバカばっかよね。「その子に何をさせるにしろ、そんな状態だとなんにも出来ないでしょ?」相手の弱さでものを見るってことが出来ない。「そっちのソファ使ってもいいし、なんなら二階のベッドを使ってくれてもいいわよ、どれでも」
そうして――?
*
そう。そうして、そんなバカな男のひとり、安堂夏彦の目的、それは極限すれば、優太の会社への、あの人のよさそうな紳士への、復讐であった。
天台烏山あるいは烏薬。
彼は、有名な実業家であり不動産王であり高利貸しであり、いわゆる暴力組織とも静かに繋がりのある隠れた有名人であり、彼から友人を、友人の作品を、あるいは彼の生活を奪った倒すべきヴィランであった。
いや、『友人を』については、正直最初は分からなかった。ただ、それでもあいつが、彼から生活を、この面倒な能力を目覚めさせることで奪ったのは確かだったし、また友人の、段野耕作の売れない絵をすべて買い取ったことにも違和感があった。そのため彼は、『彼らを知りて己れを知れば』ではないが、先ずは相手を知るところから始めた。天台烏山なる人物が何者か、どうして段野の絵をすべて買い取ったのか、どうして俺は、こんな能力に目覚め、どうしてあいつは、俺に、こんな能力が隠されていることを知っていたのか、と。
そうして――?
*
カシャッ。
とそうして最後のページが撮影され、彼は画像を確かめた。若干読み難くはあるものの、この事務所で確認出来るものは全て撮れたようである。
「よし」彼、安堂夏彦は言った。「閉じてもいいぞ」
「へいへい」祝部優太は応えた。それから少し、ためらうふりをして、「訊いてもいいか?」
いま、この事務所には彼らふたりのみ。優太のスマホは壊され、事務所の電話も来るなり安堂に壊されている。家には妻と娘が、人質と云う形で、不安定な戸柱恵祐と一緒にいる。例の刑事・左武文雄が、彼が暴走しないよう気を付けているとは言え、それもどこまで信頼、持つかは分からない。どうにかして会社か、部下の深山に連絡を入れたいところだが、優太は優太で、安堂の力で、手首と首にピアノ線を巻かれている。もしこちらが、少しでも不審な動きを見せれば……、どうにかして彼の気を逸らせ、その間にパソコンのチャットからでも深山に連絡を入れたいのだが――、
「訊くってなにをだ?」安堂が訊き返した。
「リストを」優太は続けた。画面の隅に、リストとは別の、小さなウィンドウを立ち上げながら、「そいつをいったい、どうするつもりだ?」
「ふん」安堂は答えた。「先ずは名前を、俺の名前を消したかったんだがな」
とそれから彼は、優太が彼の前に現われるまでにあったこと――段野との関係やあいつの絵のこと――、それから、優太や彼の会社から逃げた後に分かったこと――と言ってもそれは『自分の他にも妙な力を持った・持たされた人たちがいる』くらいのことだったが――を語った。手短に。色々と端折ったり隠したりしながら。
「ふむ」優太が言った。「つまり、自分や戸柱くんの名前をリストから消したい?」彼に気付かれないよう『s』のキーを押した。「俺たちから逃がれるために?」
「まあ、それも意味はないんだろうがな」安堂が答えた。「それでも、気分の問題でね」と引き続き、撮影したリストを確認しながら、「それから、この人たちに会いに行く」
「“会いに行く”?」優太は訊き返した。こちらも引き続き、彼に気取られぬよう、エンターキーを押しながら、「忠告ってことか?」
「まずはな」と安堂。スマートフォンから顔を上げ、「あんたたち以外にもヤバい奴がいるよっ――おい!」
「なんだ?」
「さっさとパソコンを閉めろ」と言って左の指を優太の首もとに向ける。「もしもなにか――」
「あ、ああ、すまない」と優太。ぱっと椅子から立ち上がり、首もとのピアノ線がゆっくり締まるのを感じながら、「つい消し忘れただけだ、締めないでくれ」そう言いながら窓を閉じ、パソコンの電源を切った。「――で? それで?」
「それで?」
「“まずはな”ってのは、どういう意味だ?」
「ふん」安堂は答えた。「勘違いするなよ」と。「あんたも対象ってことに変わりはないんだ」
「対象?」
「復讐だよ」安堂は言った。「“まだ”の人を巻き込む積もりはないがな」きっと自分と同じ境遇の人もいるだろうし、「そのためのリストにするのさ」彼らを探し、仲間にして、彼らと一緒に、「あんたの、天台の会社に復讐するんだよ」
(続く)




