その5
ずうっと不況を味わって来た世代から言わせて貰えば、専門性とか分業体制とかは、上の世代や恵まれた立場の人間が、頭の中でこねくり回した言葉を、軽い感じに口から出しているようなものだった。宙を見つめ、ポカンと開いた口の底から、モヤモヤさせつつ、漏れ出す感じの。
「事件は会議室で」でもないが、仕事は現場で起きている。株価が上がろうが下がろうが、なにかがミックスしようがミクスしようが、人が歩いて、手を動かして、資格があろうがなかろうが、免許があろうがなかろうが、やるべきことがあるのなら、誰かがそれをやらなくっちゃあならない。専門性とか分業制とか、それはやれる人手が確保出来た場合の話だ。人がいなくて、それでも仕事があるのなら、それはその場にいる人間の仕事だろう。管理だろうと保護だろうと、説得だろうと買収だろうと、『搾取』だろうと『剪定』だろうと。
彼の名前は――と、ここで優太は首を振る。立ち止まり、想い出さないようにと忘れていたことを想い出す。が、ただ、それでも、彼のあらく染めた金髪や、切り取られた青空のような瞳は鮮明に想い出せた。いかにも遊び好きといった表情や、すばしっこく、頭の回転の速いところや、いつかの祝日を想わせる、跳ねたような歩き方とか。
「ごめん、祝部さん」その日、彼はそう言った。「ちょっと小便」
ひんやりとした美しい日だった。二月の半ばとか、その辺の。新しい仕事だと言って彼を誘い出し、優太が運転する車で遠くの山まで出かけた。彼はまだ免許を取っていなかったし、ひょっとすると取れる年齢でもなかったのかも知れないが、その辺もよく覚えていない。大きな松の木と、その下でサンドイッチを食べたこと、陽の光がひらひらと彼らのまわりを蝶のように舞っていたことをよく覚えている。
「そう言えば、娘さんのお風邪ってどうッスか?」彼が聞いた。ズボンを上げながら、「祝部さん、すげー心配してましたもんね」
曖昧に優太はわらい、地図を見るふりをして山の奥へと入って行った。しばらくするとちょっと開けた場所に出た。なんだか十字路みたいになっていて、その交差部分に、奇妙な、妙に平べったい岩があった。「すこし休もうか」優太は言って、彼と一緒に座った。
「タバコいいっすか?」彼が訊いた。答える前に火を点けながら、「安いとこ見付けたんすよ、キャメルばっかですけど」
自分と彼を誤魔化すために、地図を見ながら、この日の仕事内容をくり返した。もちろん全部でっち上げだし、その内容ももう忘れたが。
「了解」彼が応えた。「いつもと一緒ッスね。難しい部分は祝部さんがやって、俺はとにかく祝部さんを守る」
彼がどうして『剪定』の対象になったのかは、いまもってよく分かっていない。たしかに、少々頭は抜けていたが、素直だし、口は固いし、彼の『盾』の能力はそこそこのものだった。
「いいコンビッスよね、俺たち」そう言うと彼は、なにやら英語の歌をうたい出した。つぶやくように。きっと耳で聞いて覚えただけなのだろう、歌詞はめちゃくちゃ、どうせ意味も分かっていなかったのだろうけど。
『ユタの砂漠の高速道路、
金を貰って街へと帰る。
ウェインズボロの境界線、
ラジオをつけて暇つぶし。』
先ほど渡したサンドイッチの毒がそろそろまわって来るころだな、と優太は考えた。胸元の拳銃を確かめ、一匹のミツバチが(二月のこんな寒い日に?)彼の前を横切って行った。
『昼は親父の工場ではたらき、
夜は幻を追って走り続ける。
もうすぐだからなウェンディ。
すぐに立派な男になってやる。』
彼は気付いていないのだろうか? すこし考え、優太は弾倉を取り外した。ゆっくりと。弾の数を確認し、またはめ込んだ。右目の隅に、短い茎の上に咲く、3~4cmほどの黄色い花の固まりが見えた。
『大通りでは犬が吠えてる。
奴らもきっと分かってる。
両手にいつか本物を、
一瞬でもいい本物を、
掴んでみたい心ってやつを。』
「祝部さん?」彼が言った。ずうっと遠くを向いたまま、「娘さんをお大事に」
銃声は三発。いかれた男たちの叫びのように。森のあちこちで、だけれど洞窟にでもいるように。うつろにとおく、ちかくまで。ゆっくり、しぃん。と響き渡った。優太は、眼鏡に付いた赤いものを拭き取ると、せめて涙くらいは流そうとしたが、それも叶わなかった。歌の続きを、彼がうたった歌の続きを、彼は、必死で想い出そうとしていた。
『なあミスター。
俺はもうガキじゃない。
一人前の男なんだ。
一人前の男として、
約束の地を信じてるんだ。』
「ミスター?」突然、不思議な顔で優太は言った。
ジリリリリッ。
地面の方から、電話のベルが聞こえた。
「携帯?」と彼は想ったが、いやいや、ここに電波は届かない。
「すぐに消えるさ」続けて彼は考えて、しばらくそれを無視していたが、
ジリリリリッ。
ジリリリリッ。
と、しかしそれでも、そのベルに鳴り止む様子はなかった。仕方がないので優太は、倒れている彼のスマートフォンを探すと、それは少し右の、ずれた地面に落ちていた。
ジリリリリッ。
ジリリリリッ。
そうして、それから優太は、そのスマートフォンに赤いものが付いていないことに少しだけ感謝すると――それはたしかに、八度目か九度目のベルであったが――そのまま電話に出ることにした。
「もしもし?」彼は訊いた。「どちらさまですか?」
『祝部さまでいらっしゃいますね?』相手は応えた。『**からお電話が入っております』
なんだか知らない、外国の名前が出された。
「すまない」彼も応えた。「きっとひと違いだよ」
そうしてそのまま電話を切った。直後――、
バンッ!!!
と、とてつもなく硬い、そうして、なにかとてつもなく大きな、なにかとなにかのぶつかり合う音が空から聞こえ、彼は、
「ミスター?」ともう一度つぶやいてから、そちらをあおぎ見――、
プツッ。
と、その後の記憶がまったく消えていることに、彼は気付いた。
そうして――?
*
そう。
そうして青年は青白く、小刻みに震えていて、いまにも倒れるか爆発しそうな様子であった。
そのため、この家の主婦・祝部守希は、怒りの奥から、同情や憐れみといった感情が顔をのぞかせ歩いて来るのを止めることが出来なくなっていた。彼女は言った。
「ねえ、刑事さん」と、クマのようなひげ面男に向かって、「ハムエッグとお味噌汁があるの」自分でも驚くほど芯のとおった声で、「冷めてももったいないから、ふたりで食べてもらえない?」
「おかあさん?」娘のひかりが驚いた顔で彼女を見た。しかし、
「いいのよ、遠慮しないで」と守希はそれを無視した。「なんだか長丁場になりそうだし、そっちの子はいまにも倒れそうじゃない」
彼らはいま、祝部家のリビングに数mの距離を置いて座っていた。守希とひかりは手足を縛られていた。優太と安堂は優太の事務所に出かけていたため、彼女たちの監視役に左武と恵祐が残された形だった。左武が応えた。すこし考え、
「ありがとうございます」それから恵祐に、「どうする? いただくか?」
この質問に恵祐は答えず、顔を上げ、貧乏ゆすりを続けながら、不思議な顔で守希を見た。守希が言った。
「安心して、毒なんかはいってないわよ」と引き続き、自分でも驚くほどに芯のとおった声で、「しんどかったら、お味噌汁だけでも飲んでちょうだい」
一瞬、恵祐の貧乏ゆすりが止まった。顔をすこし赤くして、それから、
「あ、ありが、とう」と消え入るような声で応えた。「ご、ざいます」
「ありがとうございます」左武が続けた。「どうする? 戸柱」
「お、お、お味噌汁を」恵祐は応えた。貧乏ゆすりは再開されていた。ふたたび守希の方を見た。「あ、ありがとう」今度はもう少し、しっかりとした声で、「ございます」そう言って続けた。「お、おかあさん」
(続く)




