その4
実際のところ、娘に嫉妬したことなどない、と言えば嘘になる。彼女は愛らしく、正直で、歌うように笑い、踊るように生きていた。きっと本当のご両親どちらかの血なのだろう、黙っていても他人に好意を持たれる、そんな不思議な魅力が彼女にはあった。小さい頃はよく熱を出したりもしていたが、すくすくと成長し、日々容色のおとろえて――いるつもりはないけど、それでもね――鏡の中の自分と彼女を見比べるとき、時間の流れの残酷さと彼女の若々しさに愕然とさせられることもよくあった。最近は特に。そう。実際のところ、娘の若さや愛らしさに嫉妬したことなど一度もない、と言えば全くの嘘になる。彼女と夫の仲の良さにも。もちろん夫の、彼女に対する愛情は、娘に対するそれ以外の何物でもないことは、十分過ぎるほど分かっているが、それでも――それでもね、優太くん。それにも嫉妬するのが女って生き物なのよ――そう。それでも、実際のところ、娘に嫉妬などしたことないと言えば嘘になるし、彼女を疎ましいと想ったことがないと言えば、これもまた嘘になる。しかも彼女は、私の本当の娘ではないのだから。
「お母さん……」とここで娘が言った。肩をふるわせ、泣き出しそうな声で、「あの人たち……、お母さん……、お父さんは……?」
「大丈夫よ」彼女は答えた。静かに。娘を抱き寄せ、その肩をさすってやりたかったが、それは出来なかった。ただ、「大丈夫。お父さんとお母さんがついてるわ」と返すのが精一杯であった。
朝、突然家に押し入って来たのは、話し声からたぶん三人。その中のひとりが私たちの手足を紐で――言葉にすると笑っちゃうけど、超能力か何かでそれを動かして――しばってリビングから出られなくしていた。いまは洗面所で夫と何かしらを話している。きっと夫の仕事絡みだろう。私のスマホとリビングの電話は――これもきっと超能力的な何かなのだろうけど――いつの間にか壊されていた。娘のスマホは二階だろうか? 深山さんに連絡を取りたいが、それも出来ない。こころなしか洗面所の方が熱? 歪んでいるように見えた。この前の男やさっきの男とはまたちがう誰かの何かのせいだろうか。
「お母さん……」娘が言った。「あの人たちも、ひょっとして……?」
とここまで聞いてハッとした。この子も実は知っているのだろうか? と。おかしな力を持った人たちのことを? いや、ひょっとすると、彼女もその力に目覚めているのかも、と。
「ひかり?」彼女は訊いた。「あなた、ひょっとして……?」
娘は首をふった。「知らない、知りたくない」と言っているようだった。涙を流していた。
「くっそ」とここで彼女は悪態を吐いた。ただし、こころの中だけで。自分に対して、「なにが、『しかも彼女は――』よ」と。
女の嫉妬? 血のつながり? バカバカしい。なにがどうあろうと、この子は私の娘ではないか、こころの中で自分を引っ叩いた。
「大丈夫よ」彼女は言った。今度の言葉は声に出して、「きっと、大丈夫よ」
たしかに。彼女を嫉妬し疎ましく想うこともあれば、血のつながりのないこと、自身のお腹を痛めてもいないことに、叫び出したくなる夜もあったが、それがなんだって言うのよ、クソ野郎。
「いい? ひかり」彼女は続けた。「大丈夫。きっとあなたは大丈夫よ」と。闇に怯えて泣いたのは、とおい昔のことではないか。「あなたは、お母さんが守ってあげるわ」それが、母親の務めではないか、と。
*
「『リスト』?」優太は訊き返した。「『リスト』だって?」
「あるんだろ?」安堂は応えた。「見たってやつを知ってるし、最初に会ったころ、あんたも似たようなことを言ってたよな」
左武文雄の取り成しにより安堂夏彦の復讐演説は終わり、いま彼らは、会話と交渉を始めていた。安堂側の交渉材料はもちろん、優太と家族の命である。
「どの『リスト』だ?」と言いかけて優太は左武の方を見た。彼がうなずき、優太は息を呑んだ。そうだな、ウソは吐かない方がいい。
「ああ、たしかに」彼は答えた。「会社が調べた能力者のリスト、それならある。君たちにもそれでコンタクトしたんだからな」
「見られるか?」安堂が訊いた。左武の方を見、「いま、ここで」
「はっ」優太はわらった。少しはマトモな男だと想っていたが、「見られるわけがないだろう。都内の本社か、こちらの事務所で見るくらいだ。私の権限でな」
ふたたび安堂が左武の方を向いた。左武は黙ってうなずいていた。優太の言葉に嘘はなかった。
「本社はダメだ」安堂は応えた。「遠いし、人が多すぎる」すこし考え、「アクセス方法とパスワードを教えろ。お前の事務所の、お前のパソコンだよな?」
「はっ」優太はわらった。ふたたび。すこしあざ笑うように、「指紋認証と虹彩認証が必要だ。それくらいのセキュリティはかけてるよ。どうしても見たいってんなら、俺たちみんなで行くんだな。ぞろぞろぞろと連れ立って」
「ちっ」と安堂が舌を打った。みたび、左武の方を見た。彼がうなずき、「“みんな”はだめだ」と彼は続けた。「俺とあんたで行く。家族は人質。恵祐くんと左武さんに看ていてもらう」
そうして――?
*
「ふぇ?」
とここで時間は前後して、小張千秋は、持っていたストローを、ポトンと床に落としていた。近所のコンビニで買った新作ラテを試そうとしているところに、部下の右京海都が声を掛けて来たからである。
「左武さんが消えた?」小張は訊き返した。
「わたしも」右京の声はすこし動揺しているようだった。「いま、病院にいるやつから聞いたばかりなんですが」と落ちたストローを拾い上げつつ、「どうやら、今朝、突然、不意に」
「荷物は?」続けて小張が訊いた。ストローを貰いポケットに入れ、新作ラテは後回しにした。「あと、スマホの位置情報」
「私用も共用も病室に置いたままだそうです」右京は答えた。「病院服は畳まれベッドの上に。靴や貴重品はなかったとかで、外へ出たのではないかと」
ここは、石神井東警察署の一階から二階に上がる階段の途中。小張の左足は宙に浮いた格好だったが、ここで彼女は突然に、
「むーん?」と言うと人差し指を噛みはじめ、残った右足をつま先立ちにさせた。
ぎゅーん。と頭を回転させはじめ、目は右足をジィッと見詰めて、それはふらふら揺れているようだったが、気にする風はなかった。スイッチが入ったのである。
右京は、そんな彼女よりも二三段下の位置にいて、他の署員が彼女に声をかけたり当たったり、あるいは彼女が足を踏み外して落ちないように、落ちれば自分が支えとなれるようにと、そう考え彼女を見上げ、見守れる位置にいた。小張はまるで、そのまま踊りでも踊り出すかのようにも見えた。
前回お見舞いに行ったとき、左武さんの意識も考え方もかなりしっかりしていた。頭の方はきっと大丈夫なんでしょう。身体の方は、もちろんご本人はすぐにでも動けるようなことを言われてましたし、実際そうなのかも知れませんが、それでも、病院のカルテを見る限り、かなりな重体であることに変わりはありません。
「右京さん」小張が言った。つま先立ちを止め、左足も地面に戻しながら、「病室の写真を。全体と、ベッドまわり、それに出入り口と窓の付近」
「は、はい」右京は応えた。スマホを取り出し、「病院のやつにすぐ送らせます」
マリサ・コスタを追った? いや、彼女なら我々が探しているし、左武さん一人で動く理由はないはずだ。誰かに連れ去られた? それなら室内に痕跡が残るはずだが、そんな風でもなさそ――いやいや、これは写真を待った方がいい――でも? そう。でも、しかし、それなら、そもそも誰が? 何の理由で? それとも自分で出て行った? だとしたら、いま、そこまで彼の関心がある事柄は……例のパウラ・スティーブンスか戸柱恵…………ってあれ? いや、
「あれ?」とここで小張は立ち止まる。頭の中で。顔を上げ、向こうの壁の時計を見、続けて右手の腕時計を、それからそのまま、ポケットの中のスマートフォンを取り出した。
「署長?」と訊く右京に意味なくうなずき返し、先ずはスマホのアドレス帳から、祝部優太の会社の名前を……って、いやいやいや、ちいさく首をぷるぷるぷる。なにかが違うと直感すると、続いてそのまま、優太の家の電話番号を探し始めた。「右京さん」彼女は言い掛け、
ブブッ。
ブブッ。
ブブッ。
と同じタイミングで先ほど頼んだ写真が届いた。右京のスマホに。
「見せて下さい」小張が言った。自身のスマホで電話を掛けつつ。写真は、左武が入院していた病室風景。ベッドまわりと出入り口、それから窓のあたりを複数枚。
プルルルルルル。
プルルルルルル。
電話に出るもの誰もなく、留守電には、もう少しの時間が必要そうだった。
「なるほど?」小張千秋はつぶやいた。ちいさく。病室写真をクローズアップさせながら、「彼が来たんですね、左武さん」
壁が一部変色し、ベッドのシーツに、小さな焼け焦げいくつか見えた。
プルルルルルル。
プルルルルルル。
プルルルルルル。
プルルルルルル。
優太への電話は鳴り続け、留守番電話は存在から忘れられた様子であった。
「右京さん」彼女は言った。「車をまわして下さい」言った後すこし迷ったが、いや、最悪のケースまで想定しておこう。「先ずは病院に。それから祝部さん、祝部優太さんの石神井の事務所に。それから――それから、彼のお宅にお伺いします」
(続く)




