その1
これは、今回語るのは、祝部優太が彼の娘を手放し忘れた、その顛末である。
であるがしかし、そうは言っても、いつもの通り、いつもが如く、そこにたどり着くまでには、色々とまわり道をしないといけないし、仮にそこに辿り着いたとしても、その後もお話は続くワケだけれど――そう。それはまるで我々の人生と同じように。
そう。
なのでこれから我々は、我々が我々の人生をふり返るのと同じように、その悲劇のすこし前から、その悲劇の遠因となったいくつかの出来事を絡めつつ、その悲劇の経緯を追って行くことになる――それが、彼ら家族の絆を、より深く知ることにもなるだろうから。
そう。
そのため今回は、祝部優太が彼の娘を手放し忘れる、そう決意した日の前日、朝、彼が髭を剃っているところから、お話を始めることにする――実際問題このとき彼は、まだ、その生涯を通じて、彼の娘を守り続けようと考えていたわけなのだけれど。
*
さて。
祝部優太が電気式のシェーバーから深剃りも出来るかみそりに切り替えたのは、娘のひかりが幼稚園に上がるかあがらないかの頃、彼の顔にその幼い柔らかな頬をこすり付けていた彼女が、ふと、なにかに気付いたのか、不思議な顔で彼から離れ、今度は、その小さな右手でぺたぺたぺたぺた、彼の頬やあごの辺りをなでたり叩いたり、それからそのまま、まるで逃げるように、母親のところまで歩いて行ったのがきっかけだった。
彼のひげは濃く、比較的硬めで、なんなら成長も早く、しかも、それに加えて、仕事は忙しく、会社に着いてからシェーバーをあてることもよくあったし、剃り残し、無精ひげも珍しいことではなかったからである。
「私は好きだけどね」と妻の守希は言ってくれたが、彼の頬をさわる彼女の指さきが、笑いをこらえて小刻みに震えていたのを、彼はよく覚えている。「かっわいいわね、優太くん」
そうして、それからの毎日、休みの日も含めて、朝、かみそりで丹念にひげを剃るのが彼の日課となった。ある時ひかりが訊いた。ずっと洗面台を占拠している優太に向かって、
「もう、どうして毎朝、そんなに時間かけるのよ」
と少々非難含みの声で。優太は答えた。こちらは少々ショックを受けて、
「お母さんが嫌がるんだよ」だけれどそれは顔には出さず、「ひげが残ってると痛いってな、顔をすりすりした時に」
「あー、はいはい、はいはい」ひかりは応えた。朝からうんざりと言った口調で、「朝からのろけを聞かされるとは想ってなかったわ」
「ふん」と優太は微笑し、タオルで顔を拭いた。「どうだ? 残ってないか?」
「うーん?」ひかりは答えた。それでも彼の頬やあごの辺りを軽くなでつつ、「大丈夫、大丈夫。これならお母さんも安心してキスしてくれるわよ」と今度は少し、おどけた口調で、「朝からごちそうさまでした」
「ふん」ふたたび優太は微笑した。ローションを付けながら、「ご婦人方の肌を傷付けるわけにはいきませんからな」と敢えて芝居がかった口調で、「姫さまと奥さまをお守りするのが、私の使命で御座いますので」
そうして――?
*
コホッ。
とそうして彼は、小さく咳ばらいをしてから、顔吹き用のタオルに手を伸ばした。必死で相手の名前を想い出しながら、
「戸柱……恵祐くんだね」
となんだか、途切れたラジオのような声で。
朝の髭剃りはまだ半分だったが、残ったジェルはタオルでゆっくりふき取った。タオルには小さな焦げ目と、なにか熱されているようなにおいがあった。相手の能力を想い出した。
「う、うご、うごかないで」相手の青年はうろたえていた。「お、お、落ち着いて」
彼の性格と能力については、部下の深山と彼女が書いた報告書から知っていた。いまだ行方不明中の灰原神人や、昨日森で見付けた山岸まひろの不可解な能力を別にすれば、最も危険で最も不安定な能力のひとつだろう。しかも、時折り入って来ていた断片情報によれば、彼の能力は、一時警察に捕まり逃げ出してから後、更に強力に、更に複雑なものへと進化していそうだった。
「深山は――」続けて彼は考え、洗濯機の上のスマートフォンに目をやろうとしたが、
「やめておいた方がいいですよ」と言う声にその動きを止められた。「なるほど、やっぱりあの女か」
優太はおどろき、しかしすぐに合点した。と言うのも、その声の主、恵祐の後ろに立つ大柄の男性のことも、彼はよく知っていたからである。優太が言った。
「こいつはどうも」と苦笑して、「左武さん。左武……文雄さんでしたよね」
「すみませんね、祝部さん」左武文雄は応えた。自分も戸柱もあなたやあなたのご家族に危害を加える積もりはないのだと、ただ、「あなたのお仕事、本当のお仕事について、色々教えて頂きたいんです」と。
*
さて。
祝部優太がいまの仕事を始めた顛末については、前にどこかで書いておいたので、ここで改めてくり返すつもりもないが、要は、三十年以上にわたるこの国の不景気と就職難に寄るところが大きく、彼自身、なにかこれと言ったビジョンがあってその職に就いたわけではなかった。そう。それはただただ、食い扶持確保の結果であって、そのため突然上司から、
「『転生者』を集め、保護し、管理するのが我々の目的です」
と言われた時も、笑ったり、怒ったり、相手を馬鹿にするようなことはせず、
「『転生者』?」とただただ、相手の顔色を窺いながら、「それは一体、どんなひと達なんですか?」と返すのが精一杯だった。
それが冗談なのか本気なのか、冗談ならばどう応えるべき冗談で、本気ならばどのようなタイプの本気なのかを見極める必要があったからである。続けて彼は訊く。
「よければ教えて頂けませんか? 友枝さん?」と当時の上司に。
すると、そんな優太の態度に彼女、友枝久香――考えてみれば彼女は、その頃からほとんど年を取っていないように見える――は、微笑も感心もせず、ただただ淡々と、
「まず、我々は、ひとりではありません」と、この宇宙とは別の宇宙が無数に存在することの説明から始めた。「そうしてそれは、けっして孤独ではないことを示してもいます」と。
この言葉に優太は、もう少しで眉をひそめ首を傾げそうになったが、すぐにそれを止めた。久香の声にも態度にも、冗談・冗句の要素が全く見られなかったからである。彼女は続けた。
「ある時、宇宙の間には『壁』があり、『窓』もあり、その『窓』はときどき開いたり閉じたりをくり返していることが分かりました」
と、前にも何度か、この連載でご説明したようなことを、彼女なりの言葉で。優太が訊いた。
「その、入って来たのが、『転生者』?」と説明も終盤になってから、ようやく、「その能力を研究? ビジネスに応用? とか、そういう話ですか?」
不思議なことに――いや、これも久香の能力なのかも知れないが――このとき優太は、その突拍子もない話をすでに半分以上信じており、それらを前提に会話を続けるようになっていた。久香が首を横に振った。
「そういう面も多少はあるかも知れませんが」最初にも話したとおり、「彼らを集め、保護し、管理するのが目的なんです」
何故なら、世界の歴史を見る限り、我々人類は、自分と少しでもちがう者たちを見付けると、特に彼らが少数の場合は、彼らを敵と見做し、迫害し、壁や軋轢を作り、社会を混乱、より悪い方向へと押しやる種族なのだから――、
「だから、彼らを集め、保護し、管理する必要があるんです」そう彼女は続けた。「どうしていま、サピエンス種しか残っていないか分かる?」
*
「ふん」とここで、誰かが鼻を鳴らした。「そいつは、表向きの理由だろ」
小さく、柔らかい何かが空中を横切って、優太の肩に当たり、彼は咄嗟にそれをつかんだ。
「なあ、祝部さん」遅れて現れた安堂夏彦だった。「あんたらのやってるのは、体のいい、搾取と剪定だろ?」
彼が投げた――能力で動かしたのは、ひかりの部屋の窓辺にあった、むかし優太が買って与えた、小さなクマのぬいぐるみだった。
(続く)




