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その17


『段野さんが屋根にのぼって、どうしても降りて来てくれないんです』


 戸柱恵祐が左武文雄を説得している間、安堂夏彦は目を閉じ、友人の段野耕作と過ごした最後の日々――それは悪夢に近かったが――を想い出していた。彼の手もとに残った一枚の絵画――旅人と修道士と途方もなく大きな月の絵――、それに段野がいつも歌っていたアメリカの古いバラッドとともに。



 『なあ、カウボーイ。

  もう、若くはないんだ。

  こころは傷つき、腹は減っている。

  そいつはお前に、こう言っている。

  お前の家へ帰れ、ってな。』



 がしかし、彼に帰れる家はもうなかった。彼が持ってしまった能力と、彼が誓ってしまった復讐のせいで。


「なあ、おい」安堂は言った。静かに。恵祐に向かって、「やはり危険だ。止めておこう」


 彼の強い要望に負け、ここに、左武文雄が入院しているこの病院に忍び込んではみたものの、彼の風貌やケガの具合、恵祐や自分を見る時の目の表情などから、彼をこちら側に引き込むのは難しい、いや、仮に、例えば恵祐の『爆弾』で脅し引き込めたとしても、この男は、自身の納得を最優先にする男だ。いざと言う時、こちらの想い通りに動いてくれるとは限らない――そう安堂夏彦は考えたからである。


「し、し、しかし、」恵祐がこちらを向いた。「こ、この、左武さんッ、も被害者、です」落ち着かないまま、どもりながら、「そ、そ、それに彼ッ、はいい人、です」


 安堂は苦笑した。声には出さず、心の中だけで。恵祐の自信と落ち着きのなさに。


「ふん」と一応、彼の主張を受け、もう少し様子を見ようという意思を示した。「ただ、あまり長居は出来ないし、失敗した場合は――」という忠告も与えながら。


 いま、左武文雄の右耳や肩の付け根、爪先や膝の裏、その他動きの起点となりそうな部分には、安堂の能力で動かしたペンや靴紐、針や食事用のフォークなんかが当てられていて、それで左武を動けないようにしていたのだが、これらの位置や力加減を少し変えるだけでも、左武の目を潰し、首を切り、あるいは窒息死させることも出来た。


「わ、分っ、分かっ、ています」恵祐が答えた。引き続き落ち着きなくどもりながら、「さ、左武さん」と彼の肩に手を当てながら。


 安堂夏彦は苦笑した。ふたたび。声には出さず、心の中だけで。何故なら彼が、安堂のこのみみっちい能力に恐怖して、そのくせ自身の、その強力過ぎる能力をあまりに過小に評価していたからであるし、またあまりに自然に、無頓着であり続けたからである。


 戸柱恵祐の炎や爆破を司る能力は、確実に、急速に、当人の意思や想像をはるかに超えて、成長し続けていた。きっと何かのきっかけさえ与えれば、この病室ごと、目の前の相手を吹き飛ばすことはもちろん、病院全体を火の海に変えることも出来るだろう。


 そうして、そんな右手を彼は、協力を求めている男の肩に置いているのである。説得のため。多分、当人は何も気付いていないだろうが。


「ふん」と安堂夏彦はため息を吐き、三度目の苦笑を漏らそうとした。が、


「祝部……?」とここで、ベッドの上の左武文雄がつぶやいて、彼の苦笑を止めた。「それって、あの父親のことか? 天台グループに勤めている?」


「ええ、ええ、そのとおりです、左武さん」恵祐は答えた。どういう流れでこうなったのか、安堂夏彦には正直よく分からなかったが。恵祐は続けた。


「あ、あの、祝部、祝部優太、の会社、が、ぼ、僕たち、のこ、この力を引き出したり、持ってるひと、人間、をあ、集めているらしいんです」一瞬こちらを向いた。「あ、安堂さん、はそ、それを調べていて、あ、あいつに行き当たった」そうして、「あ、あいつから、詳しいじょ、情報、事情を、聴き出したいと言っている、のですが――」


 それには、左武の能力がきっと役に立つだろうから、


「ぜ、是非、ぼくら、に。きょ、協力して、く、くれませんか?」


 そうして――?


     *


 そう。そうして祝部ひかりは、父・優太が、階段を上がって来る音を聞いた。いつもよりゆっくりと。途中何度か、逡巡するように立ち止まっているのが分かった。


「どうしたんだろう?」とベッドの上の彼女は想い、机の上の時計を見てから、「どうしたんだろう?」と改めて想った。いつもよりずっと早い帰宅だったから。


 コンコン、コンコン。


 と彼女の扉は叩かれた。


「ひかり? 起きてるか?」優太が彼女に訊いた。


「なーにー?」彼女は答えた。


「ちょっと、はいってもいいか?」


「ごめん。今日、おなかの痛い日なの」ウソではなかった。


「そうか」


「どうかしたの?」


「いや、ちょっと、心配になってな」これもウソではなかった。


「心配?」


「いや、その」少し口ごもり優太は、「最近、色々あったからな」そう続けた。


 すこしの間、沈黙があった。


「そうね」ひかりは答えた。「ごめん、ほんと、今日、おなかの――」


「実は」そう優太は言いかけたが、「実の」それ以上は訊けなかった。「いや、なんでもない」


 もし、なにか悩んでいることがあるなら、なんでも言ってくれ。と、ありきたりの言葉だけを繋げてその場を取り繕った。ふたたび、ゆっくりと、今度は階段を下りて行く音が聞こえた。また途中、何度か、逡巡するように立ち止まっていることが分かった。しかし、結局、彼が引き返して来ることはなかった。


 そうして、そんな父の足音を聞きながらひかりは、なんだか悪いことをしたような、そんな気持ちにもなったのだが、それでも、そのままベッドから起き上がり、彼を追い掛けるほどの元気は、今日の彼女にはなかった。ただただ、「また明日、改めて話してみよう」そう想うだけであった。


 そうして――?


     *


「いえ、まだ戻って来てはいません」と、手にしたスマートフォンに向かって深山千島は答えたが、すぐに、「あ、もちろん」と自信なさげに補足した。「私が気付ける範囲でって意味ですけれど」と。


 ここは、例の緑の森の中。赤毛のミスターが山岸まひろの特訓用にSEP付きタイムバブルを展開しているすぐそばで、彼女の通話相手は、先ほど階段を下りたばかりの祝部優太だった。彼女は続けた。


「それでも、ときどき飛んだり跳ねたり回転したりしながら」目の端っこに何か引っかかったりしないか、注意はしているのだが、「うーん?」とぶるぶるぶるぶる。改めて頭をふってみても結局、「やっぱりまだ、戻って来ていないと想います」


 彼女のこの自信の無さについては、いつ問題のSEP効果が復活するか分からないこと、あるいはまた、既に効果は戻って来ていたとしても、それを確かめる方法が、飛んだり跳ねたり、花びらの数を夢中で数えながら急に目の隅っこを意識するくらいしか想い付かない、考え付かない、そんな不安から来ていた。彼女は訊いた。


「石橋先生の方は?」といきなり後ろをふり向きながら、「なにか心当たりとかは?」


 が、まあ、これでも特に何かが目の端に入って来ることはなかった。優太が答えた。電話の向こうで、


『いや、特に新しい預言などは見ていないそうだが』とまわりを気にし、庭に出ながら、『例の赤毛が立ち寄りそうな場所をいくつか当たってくれるそうだ』


 さて。


 先ほどから彼らが、一体何の話をしているのかと言うと、実は、この数時間前、前回見つけた赤毛とまひろが、ふたたび、パッと突然、バブルの中から消えてしまい、その行方についての話をしているのである。優太は彼らが行きそうな場所を探し、深山はふたりが森に戻って来た場合の監視をしていたわけである。


『うーん?』優太は考え、つぶやいた。『今度はいったい、どこに行ったんだ?』


 そうして――?



(続く)

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