その16
いつそれらをなくしたのか、いつそれらをなくしたことに気付けたのか、山岸富士夫にはよく分からなかった。あるひとつの事柄がなくなっているのに気付いた途端、また別の気になる事柄が出て来て、その事柄について考えているうちに、いつしか彼は想い知る。どちらの事柄も、すでにそこにはないことに。そうして、そのような事柄たちの積み重ねの結果、彼は、「いったい俺は、なにを失くしたんだ?」と、それすらも分からなくなるくらいに対処の難しい現実、そんな現実たちが起きては、起き続けているような感覚、そんな感覚に襲われるのであった。
亡くなった祖母のことを想った。
もっと一緒に過ごしていればよかった。
病気の妻のことを想った。
もっと早くに気付いていればよかった。
行方不明中の妹のことを想った。
もっと真摯に話を聞いていればよかった。
とおい昔に別れた恋人のことを想った。
彼女の笑顔に甘えていたのは自分だった。
彼女の、自分と彼女の娘のことを想った。
胸が抉られるような想いがした。
写真でしか知らない実の娘。存在すら知らなかった自分の娘。
はじめから持っていないものに胸が痛んだ。
「くそっ」彼は叫んだ。ちいさく。自分にしか聞こえない声で。
「くそっ、くそっ」彼は叫んだ。くり返し。小さく。振り上げたこぶしの下ろし先は、自身の胸か魂にしかなかった。
彼は混乱し、パニック一歩手前だった。
あまりに色々なことが起こり過ぎていて、おいおいおいおい。泣きたい気分だった。
しかし、それも出来なかった。
涙のひとつでも落ちてくれれば少しはマシになったのかも知れないが、生まれ持った性格と、父親に叩き込まれた長男としての自覚が、それを彼に許さなかった。
余計に、救いがなかった。
そのため富士夫は、今日も平気な顔で、ベッドから起き出し、顔を洗い、服を着替え、子供たちを起こし、すっかり細くなった妻の首筋にキスをし、会社に出掛け、難しい仕事をこなし、部下を叱り、あるいは励まし、鏡に映った自分の顔を見ないようにし、急な来客にも笑顔で応じることになった。
「会って欲しい人?」彼は訊き返した。左目のまぶたが引き攣るのが分かった。「それは構いませんがね」どうにかしてそれを抑えた。「結局、天台さんとはいつ会えるんですか?」―― ひょっとして、会う必要はない、そういうことですか?
「すみませんが、私はただのお使いでしてね」急な来客――金平瑞人――は答えた。「ただ天台が、富士夫さんのことを気に掛けているのは確かなようです」
相変わらず、おっとりしているが邪悪な感じもあわせ持っている、そんな話し方だった。
「ふー」と富士夫は呼吸を整えようとした。いったい天台がなにを考えているのかが余りに不明確だったからだ。
なので、そのため、普段の彼なら、ここでこの依頼を断ることも出来たのかも知れないが、先ほども書いたとおり、このときの彼は混乱し、混沌とし、パニック一歩手前だったので、正常な判断が出来ない状態にあったし、あるいは、生まれ持った彼の性格と、父親に叩き込まれた長男としての自覚が、ここで、この依頼に、なにか直覚めいたものを感じさせたのかも知れなかった。
「ふー」と改めて呼吸を整えようとしてから彼は言った。「分かりましたよ、金平さん」と笑顔をつくり。「天台さんによくお伝え下さい」――どこで、誰と会えばいいんですか?
「もちろん、よく伝えておきますよ」金平瑞人は答えた。「場所は**ですが」とこちらも笑顔をつくりつつ、「実は、相手の方は、女性という以外知らされていないんですよ」と。「ただ、富士夫さんと縁の深い、あなたもよく知られている方だそうです」
そうして――?
*
そう。そうして幸運なことに彼女は、それをなくす前に、それをなくしかけている自分に気付くことが出来た。いや、実際のところ彼女は、それに気付くよりも前に、こころのどこかで、このままいけば自分はそれをなくしてしまうのだろうな、と薄々気付いていたし、「それでも別に構わない」と、こころのどこかで考えてもいた。「それで彼女のかたきが討てるのなら」と。
が、しかし、それでも彼女には、幸運なことに、それをなくしてはいけない、その境界線だけはまたいではいけない、そう語ってくれる友がいた。その友、木花エマは泣いていた。泣きながら、こう語っていた。
「いざと、いざとなったらあんたは、あんたは私がまもるから」と自分に何が出来るかも分からないまま、「だから、だから、だから」――絶対に一線だけは越えないでくれ、絶対に『それ』だけは失くさないでくれ、と。
支離滅裂だった。
論理もなにもあったものではなかった。
彼女、佐倉八千代のかたきは、彼女、木花エマのかたきでもあった。
何故なら、そいつに殺された森永久美子は、彼女、木花エマの友人でもあったのだから。
そのかたきを討つのに、きっと警察でも捕まえられないそいつを倒すのに、一線を超えないでくれとは一体どういう了見なのだろうか? エマは泣いていた。支離滅裂に。自分でも何を言っているのか分からないまま。それでも、八千代には、それを失くして欲しくないのだと。
何故なら、彼女、木花エマにとっても佐倉八千代は希望であったから。友であり、人のかたちをした光であったから。八千代は答えた。彼女を抱きしめながら。流石に涙は流さなかったが、
「ごめん、ごめんね、エマちゃん」と自身の軽率さと傲慢さに恥じ入りながら、「心配させちゃって、ごめんね」
が、もちろんこちらも、支離滅裂で、論理もへったくれもなかった。
何故なら彼女は、森永久美子のかたきを討つと同時に、この世界の、この宇宙の、いや、あらゆる宇宙の崩壊を、その手で食い止める一端を既に担わされていたのだから。そのため、
『ふむ』とここで、そんなふたりの様子を遠巻きに眺めながら山岸の家の祖母は言った。『またハードルを上げてくれたもんだね』
もちろん。彼女にとってもふたりの友情は美しかった。がしかし、それでも、八千代に境界線を越させないと問題の相手は倒せないのでは? と彼女の予測と予感はそう告げていた。彼女は訊いた。
『どうせ、あんたがけしかけたんだろ?』と隣に立つ赤毛に向かって。
「ですね」赤毛のエイリアンは答えた。「僕にとっても希望ですから、あなた方人類は」ととぼけた口調で。
『ふん』と山岸の祖母は苦笑した。するする伸びたその鼻の先で、『あれで足りるかどうか――』と困った声で、また、嬉しそうに、『ま、ボケ防止にはなるかね』
そうして――?
*
そう。そうして不運なことに彼は、すでに全てを失くしていた。欲しいものは全て、手に入れようとする前に、彼の前から奪われていたから。彼は想い、また願った。
「奪われたものは、取り返さなければ」
がしかし、手に入れようとする前に奪われていたものがなにか? それが彼には分からなかった。何故なら彼は、それを手に入れたことがなかったから。
なので、そのため彼は、彼が手にしたその能力――他人の力を奪い、盗む能力――を、いつかどこかの何者か――例えば来ないサンタクロースとか――が、多分に善意で、その想いや願いを叶えるために、授けてくれたものだとばかり勘違いしていた。
「奪われたものは、取り返さなければ」
そうして、彼は奪い、盗んだ。何度も、何度も、何度も。何人もの人々を殺しながら。殺し、盗み、奪うたびに、なにかがちがう、そう感じながらも。
「奪われたものは、取り返さなければ」
がしかし、くり返しになるが、手に入れようとする前に奪われていたものがなにか? それが彼には分からなかったので、当然、奪ったものと奪われていたものが、どこがどう違うのか? どこがどう同じなのか? 彼には分かるはずもなかった。
だから奪った。だから盗んだ。何度も、何度も、何度も、何度もくり返し、奪い、盗み、殺し、そうしていればいつかは、彼が奪われたものへとたどり着き、取り返せるかも知れない、そう考えてでもいるかのように。
「努力は、いつか報われる」
そう教え込まれて来たから。報われるはずのない努力を続けさせるための魔法に、ずっと、ずっと、ずうっと、騙され続けて来たから。
そう。なのでそのため、今日も彼はこうほほ笑む。
「やあ、吉野さん」とひとり暗闇に立って、「待っていましたよ」
呼ばれた相手、例の『水使い』、吉野浩治は驚いていた。ふたつの意味で。ひとつは、
「え? あれ?」と帰ったはずの男が、まだ彼の店の倉庫にいたからである。「なにか……忘れ物でも?」
そうしてまた、もうひとつは、
「えーっと?」とその男の雰囲気が、明らかに昼間の彼と違っていたからである。「藤間さん? でしたっけ?」
「ええ、まあ」彼は答えた。藤間和雄の演技は止め、灰原神人本人に戻りながら、「忘れ物ですよ、僕のね」
ザクッ。
と、それから程なくして天気雨はあがった。というか、そもそも雨なぞ降っていなかったし、これからここに、彼の、吉野浩治のまわりに、お天気雨が降ることはないだろう。何故なら彼は死に、彼の能力もまた、奪われ盗まれていたから。
(続く)




