その12
ベッドの上の祝部ひかりは、妙な頭痛とお腹の痛み――と言っても薬で大分楽になってはいたけれど――をゆっくり確かめながら目を閉じた。
頭もお腹もぐるぐるぐるとまわり続けて、すぐにでも目を開けようかと想ったけれど、それは右側の腕で抑えた。
目の前の暗闇が一層暗くなり、そこにいくつかの光や窓が見えた。不意に、そのひとつに意識を引っ張られた。
「大丈夫だ、大丈夫だよ、ひかり」
とささやく父・優太の声が聞こえた。それから、彼の汗のにおいや、剃り残した髭の感触、やさしく彼女の肩をなでる、ゴツとした大きな手なんかが続いた。彼は言った。
「きっと、悪い夢でも見ただけさ」と8才の頃の彼女に向かって、「ベッドの下に怪物なんていないよ」
「いたもん、いたもん、いたもん」8才の彼女は叫んだ。優太の首にしがみつき、「まっくろの! ぎらっとした目のやつが!」
くすっ。
16才のひかりが笑った。何故なら彼女は、これが寝る前に隠れて見たアニメのせいだと知っていたから。
「こまったなあ」優太が言った。彼はきっと、明日も早いはずだった。「どうすれば分かってくれるんだい? ひかり」
がしかし、8才の彼女はそれに答えず、引き続き優太の首にしがみついていた。
「こまったなあ」ふたたび優太が言った。「ここに怪物なんていないのに」つとめて明るい声にして、「うちのお姫さまは分かってくれない」
がしかし、悪夢に目覚めた彼女にしてみれば、ここが本当に自分の家で、ここが本当に自分のいていい場所なのかも分からない。ひょっとすると、そもそも自分がどこにいるのかから分かっていないのかも知れなかった。優太が言った。みたび。
「こまったなあ」と今度は彼女の頭をなでて、すこし考えるふりをして、「いいかい? ひかり」
「いいかい? ひかり。もし、こわい夢を見たり、おかしな事に出会ったりして、自分がどこにいるのか、自分がそこにいていいのか分からなくなったとき、そんなときは窓を開けて、むかしの、楽しかったときのことを想い出すんだ。自分がそこにいた、そこにいてもいいって感じられた、それをはっきり想い出せるときのことをね――分かるかい?」
8才の彼女は首を振り、16才の彼女はほほ笑みながらうなずいた。
「うーん?」優太は考え、こう続けた。「去年、山の上のキャンプに行ったときのこと、おぼえてるかい?」
これには、どちらの彼女も首を縦に振った。優太は続けた。
「あのとき、お母さんはさっさと寝ちゃったけど、僕らは起きてたよね? ずっと、一緒に」
*
そう。
そこは、とても美しい草原だった。夜になってもなお、いや、夜になって更に。
とおくには黄色いお月さまが、見上げればどこまでも続く星空が。
無限の宙は深くひろく、彼女はそのひかりの海へ引きずり込まれそうだった。
しかし、そこには、それほどの怖さはなかった。
何故なら、父親の体温がすぐそこに感じられたから。
「あ、」彼女は言った。「ながれ星」
そのよる彼らは、彼女が眠ってしまうまで、ながれ星を数えながら過ごした。優太が訊いた。
*
「あの夜、いくつまで数えた?」
彼らはふたたび、自宅のベッドへ戻っていた。
「ううん」ひかりは首を振った。「おぼえてない。おとうさんは?」
「うーん?」優太は答えた。「いち、にい、さん……」天井を見上げ、それから、「ごめん。僕もおぼえてないや」
クスッ。
とここでようやく、8才の彼女もわらった。
「よし、ひかり」優太が言った。ベッドの上を指差して、「くまちゃんを持って」
それは、いまよりもっと幼かった頃の彼女が、泣きながら彼にねだったぬいぐるみだった。
「どうするの?」ひかりは訊いた。優太からはなれ、ぬいぐるみに手をのばしながら。
「確かめるのさ」優太は答えた。どこからともなく懐中電灯を取り出して、「ベッドの下に怪物なんていないってね」
そうして、それから彼は、ベッドを降りるとライトを点け、その下を覗いた。
「ほら、やっぱり」彼女を手招きした。「怪物なんていないよ」
「ほんと?」彼女は訊いた。くまちゃんを抱きしめながら、「ほんとにいない?」
「本当さ、自分で見てごらん」優太は答えた。
しかし、彼女はまだ躊躇っていた。優太は首をすこし傾け、それからすこしほほ笑んだ。まさか自分が、ここまでこの子を愛せるようになるとは想ってもいなかった。
「大丈夫だよ、ひかり」彼は続けた。「もし怪物がいたとしても、お父さんが絶対にお前を守ってやる」
そうして――?
*
そう。そうして彼女は目を開けた。あまりに急に目を開けたので、頭とお腹のぐるぐるぐるが、天井にも伝染したようだった。
ただ、だけれど、そこに先ほどまでの怖さはなかった。
何故なら彼女は、そこに、記憶の中に、たしかに父親の存在を感じていたから。
「お父さん」と彼女はつぶやき、ベッドから起き上がった。
*
「おーい、深山」
とこれと丁度同じころ、問題のお父さんは小さな森の中にいた。部下の女性よりも少し遅れて到着していた。「どうだ? なにか見付かったか?」
空は晴れ、空気はさわやかで、木漏れ日は輝いていた。小鳥たちは生きる喜びを歌い上げ、深山千島は、両手を顔の前で激しく横に振っていた。
「深山?」問題のお父さん・祝部優太は訊いた。「なにをやってるんだ?」
「ああ、部長」深山は答えた。大きな木の陰にさっとうずくまり、「どうでした? 会社の方は」と言ってはまた別の木の陰で飛び上がった。
ここは、練馬区某所にある森林公園。(その7)の最後で石橋伊礼が預言し、「これは先ず、誰に伝えるべきだろうか?」と悩んでいた――山岸まひろとミスターが特訓を行っている――あの森である。
「いや、特に変わったことは……」優太は答えた。眉をひそめて、「友枝さんともすれ違ったが、普通と言うか、いつもと同じと言うか……」
「ま、けっこうなタヌキですしね、あのババア」深山も答えた。今度はつま先立ちになり、しきりに目をぱちぱちさせながら、「自分の行動は絶対あかしませんし、こっちが色々知ってても、その知ってることも知った上で、だからどうしたって感じでしょうし」
「ふむ」優太は言った。腕を組み、更に眉をひそめて、「ひかりはなんて?」
「え?」深山は言った。一瞬優太の方をふり返ったが、「なにがですか?」と続けて向きなおり、その場でトーン、トーン、トーン、トーン。と縦にジャンプし出した。
「うん」優太は言った。半歩下がって、自分も少し背伸びをしつつ、「その、ほら、なんと言うか……あれだ。生物学上の……その……」
「ぷっ」深山は笑った。ふたたびこちらをふり返り、「かっわいい、部長」とからかうように、「なんスか? 嫉妬とかですか? 会ったこともないあちらのお父さんに?」
「な、」優太は応えた。伸ばしていた足を戻し、「そんなんじゃないよ、バカ」と言うが声と態度でバレバレである。「友枝さんが関係してるんだろ? だったらまた面倒な話になる前に、あちらのお父さんには――」
「会わせたくないんですよね。分かる、分かりますよ、部長」
「いや、ばか、そこはやはり、あいつの意思を尊重すべきだとは想っているが、万が一――」
「『お父さん』の座を奪われたりしたらどうしようかってことですよね? どうします? むちゃくちゃイケメンの大富豪とかでひかりちゃんも『ほわあ、ステキ♡』みたいになっちゃったら」
「だから!」優太は叫んだ。ついつい大きな声になり、「俺は! あいつの気持ちが! 最優先だと!」
とこちらもついつい彼女に詰め寄る形になってしまうが、深山は深山でよほど面白いのだろう、
「はーいはいはいはいはいはい」と笑って応える。「正直、そのへんなんにも話してくれませんでしたけどね」それでも彼をなだめるように、「ひかりちゃん的にも悩んでるようでしたし、きっと一晩考えて、今日とかにでも部長に相談を――」
ハッ。
とここでいきなり、彼女は言葉を止めた。目の端に入り込んで来たものに、突然気が付いたからである。
「深山?」優太は訊いたが、
「しっ」と答えて彼女は押し黙った。「ちょっと、静かにしていて下さい」
それから彼女は、今度は右斜め後ろ42度に向きを変えると、そのまま腰を屈めて前進をはじめた。眉をぎゅっとひそめながら。まるで熱帯雨林で大好物のキャットフード(食べかけ)を見かけたが、あまりに遠くにあるのでそれが本当に大好物のキャットフードか、と言うかそもそも自分はキャットフードを食べたことがあるのか、と自信なく進むベンガルヤマネコのように。
「深山?」ふたたび優太は訊いた。今度は小声で。彼女の後ろを、腰を屈めて付いて行きながら、「いったいどうした?」
「多分ですけど」しばらく考え深山は答えた。「あいつじゃないですか? 石橋さんが言ってた『ミスター』って」
(続く)




