その10
「いいかい? エマちゃん」ミスターが言った。氷川神社の境内で。彼女に座るよう促しながら、「たしかに君たち人類は、愚かなサルの末裔だ」
それから、流れていた涙をふいて、食べかけていたサンドイッチを食べ始めた。
「それでも君たち人類は」と嬉しそうな楽しそうな声で、「君も、八千代ちゃんも、僕が出会った多くの人たちがそうであったように、本来とても善良で、バカで、お人好しで、闇におびえて泣いていた時代からほとんどなんにも変わっていないけれど、それでも、君たち人類は――どうしたんだよ? ほら、すわって、すわって――それでも君たち人類は、どんな絶望にぶち当たっても、それを乗り越えられる力を持っているんだよ」
エマは、まだ足はふるえていたけれど、様子のもどった彼の言葉に、その隣に、恐るおそるではあるが、ゆっくり、静かに、腰を下ろした。
「ごめんね、怖かっただろ?」ミスターは続けた。「うん。このサンドイッチも美味しいね」と言って笑った。さっきとまったく同じ場所にマヨネーズがついていて、エマは少しおかしくなった。
「よかった。笑ってくれたね」ミスターもほほ笑んだ。涙は止まっていたけれど、目のまわりは真っ赤だった。「それこそ――そうそう、それこそ君たち人類が、どんな絶望にも負けない、乗り越えてしまうことの出来る、特殊な能力さ――これってなんのことか分かるかい?」
エマは、なにか答えられそうな気がしたが、それでも黙って首を振った。彼が話したそうにしているのが分かったからだ。彼は言った。
「『希望』だよ」と彼女の顔をまっすぐに見て、「僕が、君たち人類に見ているのはそれなんだ」と。
それから彼は、彼がこれまで見て来た地獄、絶望、この世の終わり、それに、それでも彼が生き延びて来た理由――そばに居てくれた人びと――の話を少ししてから、いま、この世界に迫っているであろう危機について話した。もちろん話せるところまでだったけど。そうして、
「ごめんね」と続けて彼女に謝った。「それを回避するためにも、八千代ちゃんの能力が必要なんだ」と。
そうしてそっと、彼女の手を取りながら――ただし、もちろん、
「もちろん彼女に、さっき僕が口走ったようなことをさせるつもりはない」そう改めて答えながら、それでも、「それでもしかし、僕の力だけでは手の及ばない、間に合わない事態になることだって十分あり得る。そのときは、」
そのときは、君の力を貸して欲しい。
「私の?」少女は訊き返した。「私になにが?」
すると、この問いに男は、少し驚き、それから少し呆れると、それからふたたび微笑して――さっきも言ったじゃないか、
「『希望』だよ」と言ってわらった。彼女の手を取る彼の指さきが、小さく震えていたのを、彼女は一生、忘れることが出来ないだろう。彼は続けた。
「もしこの宇宙に、希望というものがあるとしら、それはきっと、君たちみたいな形をしているんだろうな」
そうして――?
*
「なんだ? また天気雨だな」
とそうして男がそう言うと、残りのメンバーも、つられて窓の外を見やった。雑貨店の裏の通りでは、細かい雨のカーテンが、陽の光を反射し輝いていた。
「なんだか最近、多くないか?」
と男――雑貨店店主・吉野浩治――は訊いたが、訊かれた残りのメンバーは、曖昧な表情で互いに顔を見合わせるだけだった。先ほど貰った缶コーヒーを、いつ開けようかと考えながら。
「あ、いえ、特には」とここで、メンバーを代表して藤間和雄――に扮した灰原神人――は応えた。「そんな、あまり気にしたことはなかったですね」
彼ら――藤間に扮した灰原と樫山ヤスコ、それにこのタイムラインにいる方のミスター――は、「俺の力を見せてやるよ」と言った吉野の言葉にしたがい、雑貨店の裏倉庫、そこにやって来たところだった。
「そうかい?」少々不思議というか不満そうな顔で吉野は言ったが、それは彼らへの質問と言うよりは、自身の記憶を確認するための鍵語のような感じだった。
それから、しばらく彼は、倉庫の小さな窓枠越しに、お天気雨が上がるのを待っている様子だったが、まだ当分続くとでも想ったのだろうか、ハッと気づくと首を振り、
「まあ、いいか」と言ってほほ笑んだ。ヤスコたちの方をふり返った。「皆さんに力をお見せするのが先だもんな」
それから彼は、お天気雨に背を向けると、手にした大きめのペットボトルを開け、それを倉庫の真ん中の小さな作業台に置いた。そうして、そのままおもむろに、
「俺の力は『水使い』さ」と言って右手を、その水の入ったペットボトルの上へとかざし、そのままその手を、ゆっくりと、天井方向へとあげて行った。
「あっ」とヤスコが自然に声をあげた。
と言うのも、吉野の右手と水の間に、なにかひかる、細いクモ糸のようなものが通ったかと想うと、そのままそれは、水の中全体へと広がり、吉野の手に合わせるように、ペットボトルから脱け出し、動き始めたからである。
「おお」と続けてミスターも声をあげ、
「これはすごい」と藤間和雄に扮した灰原の声がそれに続いた。「まさに、『水使い』だ」
それから、これら感嘆の声に気を良くすると吉野は、そこに左手も加え、例えば巨大な水の玉を作ったり、またその反対に、氷になる丁度手前までその水の玉を圧縮させたり、かと想えば、いくつにも分裂させ、うす暗い天井灯の下、仲よくロンドを踊らせてみたりした。
「どうだい?」吉野はわらい、両手をいっぱい広げようとしたが、ここで、「――あれ?」
サアァァァア。
集中が途切れたのか、水は吉野の手を離れ、ひかりとともにその場に落ちて行った。
「ああ、すまない、すまない」吉野はあわて、灰原たちにあやまった。「すこし調子に乗り過ぎちまったみたいだ」
水が、彼らの頭上にまともに落ちたからである。
「すぐにタオル持って来るからよ」吉野が倉庫を飛び出して、「コーヒーでも飲んでてくれ」
それに合わせてヤスコが外を見やると、先ほどのお天気雨も、いつしか止まった様子だった。
*
「どう想います?」
それからしばらくがして灰原は訊いた。ミスターに。借りたタオルを肩にかけ、缶コーヒーを飲みながら。
「うーん?」考えながらミスターは答えた。「お天気雨になるには、大きく分けて三つの理由があってね――」
ひとつは、雨粒が地面に届くまでに雨雲が消えたり移動した場合で、積乱雲のときに起こりやすい。またひとつは、遠くで降った雨が強い横風なんかで流されて来た場合で、山間部とかで起こりやすい。それから、最後のひとつは、小さな雲が雨を降らせた場合なんだけど――、
「うーん?」とここでミスター。倉庫の窓から身をのり出し、空を見上げ、「でも、それもちがうっぽいんだよなあ」と言って逆に灰原に訊ねた。「さっきの天気雨、藤間さんはどう想います?」
くり返しになるが、灰原はいま、彼が殺し、能力を奪った藤間和雄として彼やヤスコに付いて来ている。
「どうって……?」
灰原は戸惑った。いまヤスコはお手洗いを借りるとかでここにはおらず、吉野は吉野で彼女にその場所を教えるためここにいなかった。変わった男だとは想っていたが、まさか、いまのこの状況で、天気の話をして来るとは……。彼は応えた。ミスターの問いは無視して、自分が訊きたかったのは、
「僕が訊きたかったのは、いまの、吉野さんが見せてくれた能力についてですよ」どうせすぐにあれも盗むが、「あなたならアレを、どんな風に評価します?」
(続く)




