その6
安堂夏彦が自宅に戻る戸柱恵祐に与えた忠告は簡単なものばかりだった。
帽子で髪を覆うこと、手袋は外さないこと、脱いだ靴はカバンに入れて家の中を移動すること、それから絶対、感傷にはひたらないこと。
最後のひとつを安堂は特に強調したが、それは、当人も気付いていない恵祐の目的が、まさにそれだったからである。でなければわざわざ、着替えやなんかを取るためだけに、母を殺したその場所に戻ろうとするはずがない。
そう。そのため恵祐は、家に入ると、わき目もふらず、新たに買ったリュック――以前のものは警察署に置き忘れてしまった――に、服や下着や現金なんかを詰め込んで行った。本や写真や、母の薬が入っていたプラスチックケースなんかは、想い出が大き過ぎるので入れることはしなかった。安堂の忠告を無視して、すこしの間、感傷にひたった。
「ごめんね」母親のことを想い出し、「それでもこれは、復讐なんだ」そんなことを想った。
安堂夏彦は、そんな彼を路地の向こうで待っていた。見張りをしながら。近所や通行人から怪しまれないよう注意しながら。感傷云々は言い過ぎたかな、と少し後悔しながら。
「やれやれ」と遠くに行った友人のことを想い出した。「ふん」とひとり苦笑した。
*
この数日前、うす暗い貸し倉庫の隅で眠る恵祐を、安堂が見付けられたのは偶然であり幸運だった。
もちろん、警察無線と消防無線の内容から、「ひょっとして」とあたりを付けたのは確かだったが、まさか本当に見付けられるとは想ってはいなかった。
ひょっとすると前世とか前々前世とかの因縁が関係しているのかも知れないが、それでも、それはただの偶然で幸運でしかないように彼には想えた。
「おーいおいおいおいおいおい、驚くなよ、慌てるなよ、俺は味方だ、落ち着いてくれ」
目を開け、マットから起き上がり逃げ出そうとする恵祐を止めて、なだめて、座るよう彼をうながした。なにしろ偶然で幸運だ、今度飛ばれたら見付けられる自信はないし、それ以前の話として、公園で見つかった少年たちのように、燃やされてしまってはそこで終わりだ。
「仲間……?」恵祐は訊いた。おびえながら。
「もちろん、お前がよければだがな」安堂は答えた。彼の能力を見せながら、「俺も『やつら』に、これを持たされたんだよ」
安堂夏彦の能力は軽めのサイコキネシスだった。よくてパソコン、頑張っても机くらいしか動かせないが、それでもペンやノート、スマートフォンと言った小物なら、彼のイメージ次第で、最大20~30個ほどを、同時に触らず動かすことが出来た。
「『やつら』……?」続けて恵祐は訊いた。安堂が操る小石たちは、よく訓練されたドローンさながら、編隊を組んでは様々な形を恵祐に見せていた。
「覚えてないか?」安堂は答えた。おどおどと、震える声で訊く恵祐に、なんだか少し、絵描きだった友人を想い出した。「俺のところに来たのは、『祝部』って男だったよ」
そうして――?
*
そう。そうしてそこは、日没後の鶏小屋か、幕が上がる寸前の帝国劇場のように静かだった。
もちろん。森の外と云うか、タイムバブルの外の世界では、車が道路を行き交ったり、学校帰りの小学生が叫び声を上げていたり、夜と昼が入れ替わったりしていたが、この『壁』の性質を取り込んだバブルの中では、それらは遥か後景へと退き、位相のずれもあってか、それらがそこにあるのは分かるが、それでもそこに存在しないかのように中の者たちには感じられていた。
そうして、そんな彼ら――山岸まひろと赤毛のミスター――も、ただただ静かに、それぞれがそれぞれの仕事を続けている様子であった。
『ワシワシワシワシ、
ワシワシワシ。』
どこからともなく、クマゼミによく似た音が聞こえて来た。続いて、
『ジリジリジリジリ、
ジリジリジリ。』
と今度はアブラゼミ、それから、
『ミーン、ミンミン。
ミンミンミン。』
『カナカナカナカナ
カナカナカナ。』
とミンミンゼミからヒグラシと来て最後は、
『オーシー、ツクツク、
オーシー、ツクツク、
オーシー、ツクツク、
ヂー、ヂー、ヂーー、』
とツクツクボウシからニイニイゼミそっくりの音でフィニッシュさせると見せ掛けて、
『ヂーーーー、ダダダダン!』
と何故か、宇宙戦艦ヤ○トを想わせる音で終わった。そうして、
「はーあ、やーっと、終わったー」とそこに赤毛のエイリアンの声が続いた。「スーフリングをギドッてラウイアルファするだけだったからすぐに終わると想ってたんだけど、まさかフーリ・ブジャンジのアークルシージャーをクライン&ボーイ・サーフェスでフルドらないと正確な時間情報と確率情報にたどり着けないとは想っていなかったよ。いやいやいやいや、あーあ、疲れた」
とか、まあ、そんな、なんのことやらよく分からない単語を連発しながら。
「うん。やっぱ僕って天才だな」
と自画自賛する彼だが、いま彼の目の前には、いつものラチェットレンチがふわふわ浮かび、そいつが空中に窓一枚分ほどの青い画面を映し出していた。そうして、その画面の中には、向かって左側に例の『リスト』が、残った右側には、我々では到底理解出来そうもない奇妙な数式がビッチリ書き込まれていて、彼がその数式になにやら手を加えるたびに、『リスト』も微妙に変化、英語やロシア語、アゼルバイジャン語その他の言語だった部分は整合性を取られた上で日本語の主に人名漢字に、また、ただの記述記号類の羅列だった部分も読める日本語に変換され、こちらは住所やあるいは緯度経度に変換、そこに更に「2021」とか「1996」とか、恐らく西暦年であろう四桁の数字が、角丸四角形吹き出しの形でそれぞれの列に追加、更にそこから、注釈のような形で、「75.77」とか「45.91」とか「91.09」とかの数字が――これが確率情報だろうか?――こちらは下線吹き出し文字で追加されていた。
「うーむ。うつくしい」とニコニコ顔のミスター。出来上がったリストを再チェック、「おっと、ここの一変数複素関数は省略してもよさそうだな」
と数式に最後の仕上げを施してからふり向いて、
「ねー、まひろくーん」と森の反対側にいる山岸まひろに声をかけた。「出来たよー、どうだーい、見に来ておくれよー」
ちなみに。誤解のないよう補足しておくと、いまここにいるミスターは、例えば八千代ちゃんの特訓を手伝っているミスターや、あるいはヤスコ先生と一緒に能力者探しを手伝っているミスターと、人は同じだが時間の違うミスターで、要は、第十四話の途中で、こちらの森に『壁の中』を模したタイムバブルを生成した方のミスターであり、こちらの彼はあれ以来、ずっと、まひろ君と一緒にここにこもっては、いま見たリストの整理やブラッシュアップ、それに彼女の修行の準備なんかをしていたのである。
「なんですかー?」森の向こうでまひろが叫んだ。どうやら彼の言葉を聞き逃がしていたようである。「なにか呼びましたー?」
彼女がミスターの声を聞き逃がしていた理由。それは、現在彼女が、『壁』の力で宙に浮かぶ練習をしながら、採蜜をさぼったミツバチの歌を聞いていたからである。
(続く)




