その3
承前。
そう。そうしてそれは、どこか不明な修道院を描いた絵画であった。初夏、夜、旅の商人が、そこの司祭らしき老人と何事かを話していた。宙には、途方もなく大きな月が昇っていた。
「この絵は安堂さんに」そう荻連は言った。「『瓶を投げ付けて悪かったな』と」
問題の日から数ヶ月後、段野耕作はこの世を去った。死因は極度の疲労と栄養失調。いまの日本でそんな死に方も出来るのかと想うと涙も笑いも出てくれなかったが、要は自殺だった。
「他の絵は?」安堂夏彦は訊いた。
「秋田のご両親が決められますが」荻連は答えた。「はたして、どれほど残されるのか」
ずぶの素人である安堂に絵の良し悪しは分からないが、それでも、段野の絵に、いわゆる商品的価値があまりないのは知っていた。安堂が気に入った絵が、玄人筋には見向きもされず、段野自身「こんなのはクソだ」と語った仕事が、不思議な程の評価と現金を得たということも。
無論、絵が売れようが売れまいが、評価を得ようが得るまいが、意に介さなかったのが段野耕作と云う男だった――とは、自称アーティストの荻連の言葉だが、そんな彼でも、死の直前まで段野が描いていた夥しい数の絵、光と闇とここではない宇宙を描いた絵画たちについては、更に売るのは難しく、ご両親も扱いに困る、きっと処分してしまうだろう、そう考えているようだった。
「でもね、安堂さん」荻連は言った。「たしかにそれもそうですけどね、いまの世の中、ああ云う金や、名誉や、そういう野心とかを持たずに描かれた絵こそ、一番欠けているのも確かですよ」
この言葉に安堂は、改めて荻連の方を見た。彼は相変わらず、フード付きの青いトレーナーと細い目をしていた。
「絵は?」彼は訊いた。「まだ、あの部屋にあるんですか?」
このとき彼が、何故、ふたたび主人の消えたアトリエを訪問しようとしたのかは、安堂本人にしてみてもまったくの謎なのだが、あるいは気になる絵を一、二枚、形見代わりに失敬しようと想ったのかも知れない――が、結局、そこには紳士がいた。異様に身なりのよい紳士が。秘書だという黒髪の女性とふたりで。
*
「うん。素晴らしい! これこそアートだ!」
紳士は言った。両手を大きく広げ、部屋の真ん中で、軽いターンをして見せながら、
「買おうじゃないか! すべて! 言い値で!」彼を通したのは、段野の美術仲間のひとりだった。「どうだね? どう想う? 友枝くん?」
「交渉は私が」秘書の女性・友枝久香は訊き返した。「本当にすべてを?」
「少なくとも!」紳士は応えた。「この連作はすべてだな!」
それから彼は、ようやく、扉の前に立つ荻連と安堂に気付いた様子で、
「あ、これは失礼」と言って彼らにお辞儀した。「あなた方は? おふたりも段野先生と何かご関係が?」
荻連が代表して答えた。自分は段野の芸術仲間でこの家の管理人、彼・安堂夏彦は段野の古い友人で幼なじみであると。
「ご友人?」紳士が気を止めたのは安堂の方であった。「あなたも芸術を?」
「いえ、特には」安堂は答えた。高校の美術の授業以来、絵は描こうとした気もないのだと。
「ふむ」紳士は続けた。安堂の顔をジッと見詰めて、「段野先生の絵は? 買ったり、貰ったり?」
「いえ、特には」安堂は答えた。咄嗟に。司祭と商人と月の絵が頭を過ぎったが、「私はまったく、芸術など分からない人間なので」
「ふむ」ふたたび紳士はうなると小首を傾げ、またそれから、「あ、これは失礼」と言って小さな名刺を取り出した。どこからともなく、「私、こういう者でして」
すると、不用意にも安堂は、それをそのまま受け取ったばかりか、サラリーマンの悲しい性だろう、自身の名刺を紳士に渡してしまった。なんの考えもなく。
「安堂、夏彦、さん?」とそれから紳士は、名刺に書かれた彼の名前を二・三度くり返すと、当たり障りのない会話をしてから、荻連に段野の父母の連絡先や、これまで彼が関係して来た美術商の名前を訊き出した。荻連が一瞬――きっと例の絵画のことであろう――安堂の方をふり向いたが、彼は、小さく、そのことには触れぬよう荻連に合図を送った。紳士がくれた名刺には、『天台烏山』の文字があり、それから土日をはさんだ翌週に、安堂のドアはノックされた。
「安堂夏彦さん?」眼鏡をかけた中年の男であった。ひとりの、背の高い男を連れていた。「すこし、お話を聞かせて頂きたいのですが」
男の名前が『祝部』だと彼が知るのは、これよりすこしあとのことである。
*
「お話……ですか?」彼女は訊いた。
「ええ、まあ、そうね」女性は答えた。「あなたのお父さん、あなたの本当のお父さん、山岸富士夫さんについて」
彼女・祝部ひかりは、女性・友枝久香のことを知らなかった。ただ、どこかで会ったような気がするな、とは想っていた。誰かに似ている気がするな、とも。そうして、そんな彼女の容姿と雰囲気を確認しようとし過ぎたせいだろうかひかりは、
「え?」と呆けたような声で久香に訊き返すことになった。「すみません。いま、なんて?」
「大丈夫?」久香も訊き返した。わざと、心配しているような口調で、「あなたのお父さん、本当のお父さんについてよ」
そうして、この彼女の声、その色と形にふたたび触れてひかりは、彼女が誰に似ているのかついに想い至った。容姿も雰囲気も、ついでに言うと声すらもまったく似てはいなかったが、彼女は何故か、ひかりの父・優太の部下で彼女もよく知る女性・深山千島によく似ていたのである。その雰囲気というか能力というか、彼女の周囲に見える光という意味で。
「すみません」ふたたびひかりは訊き返した。「そもそも、あなたは……」
が、ここで彼女は、急な眠気に襲われると、そのままそこに立ったまま、うとうととし始めた。足もとがふら付き、まだ明るかった太陽が夕日のように燃え出すのが見えた。
「大丈夫?」と訊く久香の声と肩にその身を委ねた。「突然だものね、びっくりしたわよね」
そうしてそのまま、彼女は意識を失くした。
(続く)




