その2
『段野さんが屋根にのぼって、どうしても降りて来てくれないんです』
段野耕作は安堂夏彦の古い友人で画家、そうして重度の薬物依存者であった。
が、とは言っても、覚醒剤やコカイン等にはほぼ手を出さず、メインは大麻、それに度数の高いアルコールばかりを選んで飲んでいたのだが。
ある土曜日の朝、安堂夏彦に電話を掛けて来たのは、段野のアトリエもある古い一軒家――彼は複数の仲間と共にそこを借りていたが――そこの管理人だった。
彼は、フード付きの青いトレーナーを着た細い目の小男で、自分のことを写真家、アーティストだと自称しており、段野や他の芸術家連中に深いシンパシーを感じていた。ただ、もちろん、結局だれも、彼の撮った写真を見た者はいなかったが。彼は続けた。
『段野さんに何かあったら、安堂さんに電話するよう藤森さんが』
藤森宗助も安堂夏彦の古い友人でこちらは工業エンジニア。もちろん段野とも仲が良く、彼のことをよく気に掛けてもいたのだが、この一年ほど前に、九州地方は阿蘇熊本まで異動しており、薬や酒をやり過ぎると、例えばチキンスープすら摂れなくなる段野について、
「悪いが夏彦、俺の分も面倒見てやってくれ」と、そう彼に頼んでいたのである。「あとはこいつを、ヤツが本当に必要としたときに」
それは、ねじ蓋式の大きなガラス瓶で、すぐには中が見えないよう、外側に白い紙が巻かれていた。がしかし、それが何かは、安堂にもすぐに分かった。
「出どころは言えんが、品質はかなり良いそうだ」
安堂はその大麻を、自宅の二階の押入れの奥に隠していた。
*
「なんですか? その瓶」写真家兼管理人が安堂に訊いた。
「あいつに必要なものさ」彼は応えた。空を見上げて、「どこだい?」
「あー」管理人は応えた。彼を探して、「あ、あそこ、あそこです」
『ダイヤのクイン、引くんじゃねえぞ。
そいつはふっと、出ていっちまう。
おまえをひとり、そこにのこして。
おまえの望みは、ハートのクイン。
おまえもそれは、分かっているだろ?』
段野は歌っていた。ふるいアメリカのバラードかなんかを。ずうっと遠くの空を見上げながら、ひとりで。まるでそのまま、そこから飛び立ちそうな雰囲気で。
「段野!」安堂は叫んだ。
「よお、カウボーイ」彼は応えた。「ひさしぶりじゃねえか」
安堂夏彦は普通の会社員。学生時代はアメフトをやっていたこともあったが、それから十数年、身体はだぶつき、手足もほそくなり、とてもカウボーイには見えなかった。
「いい加減降りて来たらどうだ?」ふたたび彼は叫んだ。「荻さんも心配してるぞ!」
「ちょ、ちょっと安堂さん」管理人が彼に訊いた。小声で。いまの“荻さん”とは彼のことである。「そんな刺激して大丈夫ですか?」
「大丈夫さ」安堂は答えた。確信はなかったが、「俺にはこれがある」と手にしたガラス瓶を彼に見せた。「あっちもこれに、気付いているさ」
『テーブルの上の、お前の持ち札、
なかなかいいと、俺はおもうぜ。
なのにおまえは、もっといい物、
ない物ねだりを、続ける気かい?』
「あ、降りて来るみたいですよ」“荻さん”は言った。段野がゆっくり、腰を上げたからである。
屋根の上に立った彼は、安堂の記憶よりも更に痩せ、1600kmを歩き続けた修行僧のようにも見えた。彼の白い服は、彼にはもう似合わなくなっていた。
安堂夏彦は、“荻さん”こと荻連に、温かい飲み物を用意するようお願いすると、家の中へと向かい、段野耕作の扉、彼のアトリエのドアをノックした。
「やあ、カウボーイ」段野がドアを開けた。「いい加減、目を覚ましたらどうだ?」
アトリエへ入ると、そこには何枚もの――では言葉が弱いな――夥しい数のキャンバスが置かれていた。なぐりがきのような筆致で。色彩を持たない男が選んだような色合いで。それでも何かに追われ、実際にそれを見たものにしか描けないようなリアルさで。それら絵画は、部屋を、世界を、宇宙を埋め尽くそうとする無数の油彩画であった。
「藤森に頼まれてたんだ」安堂が言った。アトリエの中央に腰を下ろしながら、問題の瓶を段野に渡しながら、「中身は分かるよな?」
渡された瓶を段野はしばらく眺めていたが、突然、
ドンッ!
と扉に向かってそれを投げ付けた。幸い扉は破かれず、ガラスの瓶にも小さなひびが入っただけだった。
「な、なんですか? いまの音は?」
直後、荻さんが飲み物を持って入って来た。恐るおそるといった様子で、トレイごとそれを床に置くと、そそくさと部屋を出て行った。
「ごめん、荻さん」安堂が言った。「そこの瓶、持ってってくれ」
「え? い、いいんですか?」荻連が訊いた。「け、結局、なんなんですか? これ?」
「知らない方がいいですよ」安堂は答えた。それからちょっと段野を見て、「どうやら、要らなかったようです」
段野は歌の続きをうたっていた。小さな声で、まわりに描いた景色を眺め、それらの絵を見るよう促しているようだった。
『なあ、カウボーイ。
もう、若くはないんだ。
こころは傷つき、腹は減っている。
そいつはお前に、こう言っている。
お前の家へ帰れ、ってな。』
段野耕作がガラス瓶を投げ付けた理由。それは、後日分かったことだが、このとき彼は、すでに、大麻はおろか、他の薬物や、更には数滴のアルコールすらも必要でなくなっ――いや、もう少し正確に書くのなら、それらは彼の、『仕事の妨げ』になっていたからである。
「目だよ、目がおかしいんだよ」段野は言った。荻連の持って来た黒い茶を、雑に茶杯に注ぎながら、「おそろしい程の透視力を俺に見せるんだ」
彼の言によれば、ここ最近、例えば神社の樹々だとか、例えば街の空だとか、例えばリンゴの籠だとか、そんなものを描こうとすると、突然、その細部、あるいはその背景に、その真実の姿、あるいはまったく別のなにかが見えて来るようになったのだと言う。
「俺はそいつを見詰める。キャンバスに描こうとする。集中しようと、いつものくせで、ついつい酒を、あるいは薬をちょっとやる」
が、それが途端にノイズになる。酒を止め、薬を捨てる。やっても大丈夫なのは水かお茶、食事も、味の濃いものは『仕事の妨げ』になる。
「そもそも摂ろうって考えが浮かばない。自分ってやつが意識されない。絵は、まるで夢の中からこちらに、俺の方へとやって来る」
そうしてそのまま、忘我のうちに、まるでなにかに――それは複数の宇宙の僅かな残り時間なのだが――急かされ脅迫されるように、加筆も修正も、言い訳すらも許されない絵を、彼は、非常な速度で描き続けているのだと言う。文字通り、寝食を忘れ、骸骨のように痩せさらばえ、このまま栄養失調で死んでもおかしくない、そう安堂が想ってしまう程に。
「しかし」と安堂は言い掛け、その口を閉じた。
何故なら、段野が描いた無数の絵画、それらのほとんどは光に埋め尽くされた闇を描いたものであり、残りのいくつかは、彼らの知る地球とはまた別のどこかのように、彼には想えたからである。
(続く)




