その12
それから、やがて時間はさかのぼり、左武文雄は毛布の中で目を覚ました。なんだか息苦しいなと想ったが、それは彼が毛布を頭から被っていたからだった。
鳥の声が聞こえた。
入院患者の静かなざわめきも。
左武文雄は毛布を払いのけた。
病棟の窓はすっかり開け放たれ、彼以外の入院患者は庭に出てそれぞれの時を楽しく過ごしていた。
本を読んだり、散歩をしたり、木の葉を数えたり、雲に話しかけたり。
「あら?」中年の看護師が彼に言った。手に大量の洗濯物を抱えていた。「ようやく起きたんですね」
この病棟の患者たちは、必要最低銀のルールの中で自由に行動することが許されていた。陽が高くなるまで眠っていてもよかったし、音楽室のピアノでラフマニノフを演奏してもよかったし、ヤン-ミルズ方程式と質量ギャップ問題に答えるのはもちろん、病棟への自由な出入りや、気が向けば自宅に帰ることすら許されていた。みな世界におびえて帰らなかったが。
「**さん」左武は言った。うれしそうに。ベッドから転げ落ちながら、「重そうですね、持ちましょうか」
看護師はほほ笑み、断わり、その場を離れたが、左武は追いかけ、笑って、彼女から大量の洗濯物を奪い取った。相変わらず左武はやせっぽちで、戦争のトラウマを抱えており、彼女は健康的でふくよかで、左武の何倍も頼もしくたくましく見えたが、それでも自分の方が若く、かつ男の子だからと言って彼女を説き伏せたのであった。
「それに、聞いて欲しい話もありますし」
それから彼は、洗濯室に到着するまでの長く短い間、夢で見た、あるいは現実で体験した、夢のような現実を彼女に語った。火に憑かれた男や、凶悪な双子の魔女、救世主のような殺人鬼に、そいつから幼い彼女を救った話なんかを、想い付くまま、早口に。彼女はほほ笑むと、「まあ」とか「え? それは大変ね」と応えては、彼の夢の、あるいは現実の話に合わせてくれた。
「毎晩お祈りしてるんですよ」彼女は言った。
「お祈り?」左武は訊き返した。
「お祈りはいいですよ。世界がまだ『この程度』で済んでいるのもきっと、世界のどこかで、誰かが、いまもお祈りをしてくれているからなんだと想います」
「なるほど。たしかにそのとおりかも知れませんね」左武は応えた。
「ですからね、左武さん」彼女が言った。彼らは洗濯室にたどり着いていた。「まだはやいですよ」と今度は彼女が、彼から洗濯物を奪い取った。「あなたのことも、祈っていますからね」彼女は続けた。「さあ、目をさまして下さい」
*
それから、やがて時間は順行し、左武文雄は毛布の中で眠りに落ち、三十分もしないうちに目を覚ました。片目を開けると、白く無機質な点滴と、部屋の片すみに座る小張千秋の姿が目にはいった。彼女はいつもの、自分の世界に没入しているあの表情で、手にしたスマートフォンをテトテトテト、何かを書いたり調べたりしている様子だった。
ふたたび左武は片目を閉じた。問題の看護師――遠い時代・遠い世界のパウラ・スティーブンス――の輪郭を想い出そうとした。また、それと同時に、この世界での彼女――先日彼が救った九才の女の子――の姿を再現してみようとも考えた。彼女たちの外見にはまったく共通点がなかった。声や、喋り方なんかにも。それは、向こうの世界の自分と、いまここで包帯を巻かれている自分に共通点がないのと同じだった。
ここはどこの病院だろうか?
船場の事務所があった場所から考えると、※※※の救急センターか、***の警察病院が妥当だが――結局俺は、彼女がいま、どこにいるのかも知らないんだったな。
こふっ。
小さな、呆れるようなせきが出た。小張がこちらを向くのが分かった。くそっ、彼女の邪魔はしたくなかったんだが。
「左武さん?」彼女が訊いた。ゆっくりこちらに近付きながら、「ひょっとして、起きられました?」
「すんません、署長」左武は謝った。『あちら』に行った意識は、すべてこちらに戻さなければならない。「船場の野郎、どうなりました?」
*
結局のところ、問題の巨漢弁護士・船場偉月があの後どうなったか? それを彼らが知ることはなかった。想像なら出来たが。何故なら、彼の遺体はもちろん、例えばその血の痕だとか、例えばその切り落とされた右耳だとか、あるいは逆に、元気な彼の姿だとか、気落ちしたその声だとかが見付かることもなかったから。
「事務所に落ちてたスマホから、関係しそうなところに片っぱしから連絡取って貰ってますけどね」
と小張は言ったが、それでも誰も、彼の行方は知らず、こころ当たりもなく、中には、
「あーっはっはっは」と高笑いする者や、
「そいつはきっと天罰ですよ、天罰」とよろこぶ者、さらには、
「ざ、ざ、ざまあ」と自嘲的な笑いで答える者もいた。「あ、あ、あの野郎、な、な、何度、何度だって、殺され続けりゃいいんだ」
一応、遠くに住む親戚が見付かったので、行方不明者として届け出るかどうかも訊いて貰ってはいるが、どうも親戚付き合いもご近所付き合いもまったくして来なかったらしく、
「“ぬかにくぎ”と言うか“のれんに腕押し”状態のようで」ともすれば、このまま放置されてもおかしくない様子とのことだった。「かわいそうなのは事務の方で、パート代が三ヶ月分たまっているそうなんです」
「女の方は?」左武が訊いた。小張が買って来たヨーグルトを食べながら、「あれだけ暴れたんだ、逃げたと言ってもなにか証拠は残したでしょ?」
が、しかしこちらも、左武の予想に反し、指紋や毛髪、靴の跡はもちろん、目撃者すら発見されず、
「しかも」と言って小張は続ける。スマホの画面を見せながら、「ビルの防犯カメラにもまったく映ってなかったようなんですね、これが」
なるほど、たしかに。スマホの画面には、署にいる右京から転送して貰った防犯カメラの映像、その一部が映し出されていたのだが、問題の女はもちろん、彼女から逃げる左武や船場の姿も見えず、見えても手足の一部がカメラのフレームぎりぎりをかすめていく程度であった。小張が言った。
「偶然なのか、必然なのか」スマホを戻してテトテトテト、「どうやらあのビルも天台グループの持ち物らしくてですね」なにやら色々探してから、「まあ、疑い出したら止まらないってのは――とあったあった」
とふたたび、スマホの画面を左武に見せた。すると、
「え?」と彼はおどろき、「どうして?」そう言い掛けてから首を小さく左右に振った。「いや――別人?」
それは、先日の聴取で小張が撮った、マリサ・コスタの写真だった。小張が言った。
「そうなんですよねえ」困ったような、だけれどとても嬉しそうな声で、「顔もスタイルもまったく同じ。だけれど雰囲――あ、髪の色もですけど――雰囲気がまったく違う」
これ一体、どう想います?
*
実際のところ、どう想うもこう想うもなかった。何故なら彼女、祝部ひかりは、ここ最近あまりにも多くの新たな情報・新事実に直面していたし、にも関わらず、その新たな情報・新事実は、彼女が抱える謎や疑問を一向に解決しないどころか、その新たな情報・新事実に出会えば出会うほど、そこからまた新たな謎や疑問が現れては増えて来る――と言った具合であったから。
実の母親が生きていて、千葉に住んでいることが分かり、会いにも行った。これはいい。しかし彼女は、ひかりの能力についての答えを知らず、代わりに、その能力をめぐるであろう紳士と修道士と悪魔がいたこと――もちろん彼女は彼らの正体を知らないが――をひかりに伝えて来たりした。ひかりは想った。
「それを聞いて私にどうしろと?」と。
更に、またその母・山賀理主は、ひかりの実の父と真剣な恋に落ち、愛し合い、その後、まあ男女のなんやかんやがあって別れたと言うことであった。が、うん。まあ、これもいい。見も知らぬ男性だか神さまだかの子どもを知らぬ間に身ごもっていたとかではないし、彼女が、少なくともその時点では、彼のことを本気で愛していたことは、その口ぶりから分かったから。
が、しかし、その上で彼女は、その男の写真はおろか、名前も住所も年齢も、好きな野球チームや野球選手、それにそもそも野球に興味があるかどうかすら教えてくれないと言うし、そのくせ、先述の悪魔はどうやらその男性の関係者のようであるとか、そう言う余計に混乱することだけは教えてくれるのであった。ひかりは想った。
「それを聞いて私にどうしろと?」と。それから――、
ああ、そうそう、それから更に、そもそも彼女の情報――と言うか彼女につながるネット記事――を教えてくれたのは、お父さん(こっちは育てのお父さんね)の会社の深山さんだったけど、あれからこっち、彼女とは連絡が取れないし、彼女のことをお父さんに訊こうとしてもなんだかずっとはぐらかされちゃうし、それからそうそう、深山さんと言えばさ、この前私と朱央の記憶がおかしくなったのも、どうやら彼女が催眠術? みたいなものを私たちにかけたからみたいで、どうやらそれも、それこそお父さんからの指示だったっぽいんだけど、どうしてそんなことを指示したのか? あの親父、いちど問い詰めてやりたいんだけど、昨夜もなんだか、千葉から帰って来たところを朱央も誘って食事して、しかもまるで初対面みたいな顔で彼と会話しやがってさ、その上最後には、
「それで? ふたりはこれから付き合ったりするのかい?」
みたいなことまでニヤニヤしながら訊いて来やがって、あのスケベ親父。
「そう聞かれて私にどうしろと?」と、祝部ひかりは想った。
(続く)




