その10
その女を改めて見上げて船場偉月は、「ああ、この女になら殺されてもいいかもな」と、そんな風に想った。不覚にも。
女は美しく、力強く、比喩ではなく実際にひかり輝いていたし、そもそも死は、彼にとって――彼の母親がそれでいくつもの問題を解決したことからも――抗いがたい誘惑のひとつであった。
「や、やるなら」彼は言った。「あ、あんたの手で」女の顔が二重に見えたが、涙は流れていなかった。「ひ、ひと息に」
「ふーん?」女がわらった。天使のようなほほ笑みだった。「いーい、こころがけじゃない♡」
「さ、さあ」船場は言った。
「うーん? でもねえ」女は応えた。
「い、いいから」船場は続けた。
「やっぱ報酬分は働きたいしー」女は応えた。
「て、天台さんの」船場は続けた。「ふ、不利になるようなものは、な、なにも――」
「そんなに?」女が訊いた。「そんなに私に殺されたいの?」
船場偉月は、うなずきもせず声にも出さず、ただただ彼女を見つめるだけでそれに応えた。
「かっわいい♡」女が言った。
それから彼女は、なにやら右手を細かく振ると、まるでそこに身体中の光を集めようとしているようだった。
男は目を閉じひざまずき、両手を上にゆっくり挙げた。
そのため女も、そんな男の首もとに、光る右手を振り下ろそうと――、
ドンッ!
とここで大きな音がし、女は弾き飛ばされた。横向きに。なにか黒い、熊のような固まりによって。
「船場!」固まりが叫んだ。「なにしてやがんだ! 逃げろ!」
先ほど数m先の壁へと叩き付けられた左武文雄であった。
「ここは!」彼は叫んだ。「俺が食い止める!」彼の左腕は上がらぬようであったが、それでも、「お前は逃げて! 誰かに助けを!」
彼が叩き付けられた壁には、先ほど出来たばかりの、深いふかいひびが入っていた。
『あぶない!』突然誰かが叫んだ。左武にだけ聞こえる声で、『ひだり!』
「ひだり?」と左武は感じ、感じるよりも先に、その巨体を右にひねらせていた。すると、
ブゥオン。
と、ひねらせた身体の横、その数cm先のところを、オフェリア・モンタルトのひかる右手が横切って行った。明らかに、彼の首もとを、その頸動脈を狙ってのものであった。
「あら?」彼女はつぶやいた。「偶然? にしちゃやるじゃない」
『構えて』彼女と違う誰かが言った。くり返しになるが、左武にだけ聞こえる声で、『すぐに来るわよ』
『ちょっと待て』左武は訊き返した。もちろん心の中だけで、『だれだ? あんた?』――が、これが悪かった。
トッ!
とオフェリア・モンタルトの右手のひらが、左武の左胸を打ち、彼はその場に崩れることになった。『誰か』の声に気を取られ、避けるのが遅れたのである。
「ふーん?」オフェリアは言った。「相手なら後でしてあげようと想ってたんだけどさあ」目でなにかを探しつつ、「そーんなに我慢出来なかっ――あ、こんなところに転がってた♡」
先ほど落とした、左武の拳銃であった。
「うーん?」彼女は続けた。「ま、順番はどうでもいっか♡」慣れない手つきでそれを眺め、「いちど撃ってみたかったのよね、これ」
弾丸を確かめ、撃鉄を起こした。胸の痛みで左武は立ち上がることも出来なかった。照準を、というか銃口を、彼の額の真ん中へ向けた。
「これ、このまま引けばいいのよね?」
パン!
*
ガチャン。
とガラスのコップが床に落ち、そうして欠けた。少しだけだが。そのため藤間和雄――に扮した灰原神人は、おどろき慌て、つい、
「す、すみません」と咄嗟にその場にしゃがみ込んだ。「まだ、その、慣れていなくて」欠けた破片を集め始めた。「そっちには? 飛んでいませんか?」
このコップは、飲み物を出すのに使っていたものだが、中身が空になったので――客人の手前少し浮かれていたのかも知れない――例の氷の玉に閉じ込められないか試そうとしたものであった。が、結果はご覧のとおりである。
「あ、私の方は大丈夫です」ひとり目の客人、樫山ヤスコは答えた。「藤間さんこそ、破片気を付けて下さいね、指とか」
彼女は、彼が見せてくれたこの氷の能力に、ただただ驚き目を奪われていたので、先ほどの藤間――いや、灰原の不用意な発言に気付いていなかった。代わりに、
「いつからでしたっけ?」とふたり目の客人、赤毛のミスターが彼に訊いた。「藤間さんがそれを出来るようになったのって?」
「いつから?」灰原神人は訊き返した。「この能力が?」
「ええはい」ミスターは応えた。「藤間さん、いま、『まだ慣れていなくて』と仰られたので、どれくらい練習されていたのかな? と」
彼は、ヤスコが生前の藤間本人から貰ったメールの内容から、彼が引きこもり始めたのは、この能力に目覚めて以降だと知っており、またこの部屋の様子――キッチンの使われ具合や置かれた雑誌の発行年など――から、それが少なくとも一年以上前のことだと考えていたのである。
「え? ああ、はい」灰原は答えた。とぼけた顔で、「そうなんですよ、すみません」と床から彼を見上げながら、「中に物を入れるのは、この数週間前に始めたばかりなんですよ」
「え? あ、そうなんですか」ミスターは訊き返した。
「そうなんですよ、すみません」はにかみながら灰原は答えた。とても誠実そうな笑顔に見えた。「お客さんの前で張り切り過ぎちゃいましたね、すみません」
「ふーん」ミスターは言った。まだ何かに引っかかっている様子だったが、これは、先ほど感じた空間位相のズレ、それに微かに感じる、彼ら以外の誰か――それは藤間和雄本人の遺体なのだろうが――その匂いと気配のせいであった。がしかし、この匂いと気配については大変微弱なものであり、ミスターもまた「うん?」となる程度の物でしかなかったため、この話は、これ以上掘り下げられることはなかった。
が、それでは何故、藤間和雄の遺体の匂いと気配は微弱なものであったのか?
それは、彼が最後に成したこと、灰原神人に自身の力が移ったことを確信した後、残った力と生命で成したことが影響していた。
彼はいま、この部屋のクローゼットの奥、彼自身が造り出した分厚い氷の珠玉のその中で、ひとり静かに眠っていたのである。
そうして――?
*
パンッ!
とそうして、オフェリア・モンタルトの放った銃弾は、左武文雄の額ではなく、彼の側頭部をかすめただけであった。
「?!」
彼女は驚いていた。何故なら、確かに彼の額を狙ったはずのその拳銃が、引き金を引いた瞬間、彼女の左手によって、右に弾き飛ばされていたからである。彼女――いや、マリサ・コスタは叫んだ。
「『逃げて!』」と、いまはオフェリアの管理下にあるはずの自身の唇を使って、「『逃げて! お兄さん! 走って!』」と。
(続く)




