その9
『タタッ、タ、タータ、タタン。
タター、タ、タータ、タタ、タタン。
タタタ、タ、タタッ、タータ、タタン。
タター、タ、タタ―、タター。』
結局、船場偉月は弁護士バッヂを手放した。
いや、そもそも彼は、これよりずっと以前に、それが象徴するもの――正義と自由と公正と平等――をその辺のごみ箱に投げ捨てていたし、このとき彼が身に付けていた弁護士バッヂ――それには小さな発信機が埋め込まれていたが――は、こちらも今よりずっと以前に、天台の手下によりすり替えられたものだったので、彼が本日手放したのは、内実ともにただの偽物でしかなかったわけだが、それでも。
そう。それでも彼はそれを手放し、六階裏階段の出入り口扉、その向こう側へと放り投げたのである。フェイクにどれ程の価値があるかは知らないが、その偽物と引き換えに自身の寿命を引き延ばせないか、と彼は虫の良いことを考えたのである。
『タタッ、タ、タータ、タタン。
タター、タ、タータ、タタ、タタン。
タタタ、タ、タタッ、タータ、タタン。
タター、タ、タタ―、タター。』
そうして、左武文雄はそれよりひとつ上の階、七階の裏階段に隠れ拳銃を構えていた。耳を、特に心の声を聴く耳を、よく澄ませながら。
「おいっ」
と六階の扉が閉まるのを待ってから、船場にもこちらに上がって来るよう指示した。何故なら、問題の女、天台の殺し屋の心の声は階下から、この階段を上がって来るように聞こえたからである。彼女は口ずさんでいた。心の中で。ずいぶん昔の戦争映画のテーマを。
『タタッ、タ、タータ、タタン。
タター、タ、タータ、タタ、タタン。
タタタ、タ、タタッ、タータ、タタン。
タター、タ、タタ―、タター。』
もちろん、例の軽く、憎悪も敵意もない、あっけらかんとした単純な殺意は、彼女の歌、意識の中から消えてはいなかったが。如何に船場を追いつめ、恐怖させ、気分次第で命乞いさせてやらないこともないが、結局そのまま、なるだけ痛い目に会わせてから、首の骨でも折って殺してやりましょう。ペキッ。とそう彼女は考えていたのである。
『俺のことは?』左武は考えた。『どこまで認識してるんだ?』
部屋に一緒にいたところまでは見られている。廊下を逃げ出すところも。ただ、いまも一緒にいると想われているかは分からない。俺が刑事であること、拳銃を持っていること――は、まあ知らないだろうし、この能力についても、まあ先ず知らないと考えてよいだろう。
『タタッ、タ、タータ、タタン。
タター、タ、タータ、タタ、タタン。
タタタ、タ、タタッ、タータ、タタン。
タター、タ、タタ―、タター。』
こころの歌声が近付いた。女のすがたが見えた。拳銃を確認する。光の加減だろうか、なんだか少し、女のまわりの空間が歪む? 輝いている? ように見えた。一瞬パッと目をつぶり、直ぐに開いた。照準を女の脚に合わせる。すこし遠いか? 船場の呼吸が荒く、心臓も速くなっているのが分かった。うるせえな、こいつ。女が、六階扉の前で立ち止まった。手もとのスマホを確かめている。きっと弁護士バッヂを見付けたのだろう。どうする? このまま撃つか? また怒られるか? いや、あれほどの化け物だ、船場にも証言させれば何とでも言いわけが……いやいや、くっそ、小張さんなら、それは刑事っぽくないって言うんだろうなあ……仕方ない。まずは女に忠告を――が、このまよいと逡巡が、彼の命を危うくさせた。
「なにあんた、物騒なもの持って」
と突然、目の前に、例の女、オフェリア・モンタルトが、確かにさっきまで、一階下の踊り場にいたはずのその女が、現われたのである。先ほどよりも更に、自身の周囲を歪ませ、輝かせながら、
「これ、あの子のちからなのに使えたわね」と自分で自分に驚きながら、「でもおかげで、助かったわ♡」
とそのまま左手で、拳銃を持つ左武の両手に軽く触れ、
メキャ。
とそのまま彼の手首をへし折った。拳銃が床に落ち、女が微笑んだ。
「はいはい♡」
と今度は右手で、彼の身体を後ろへ押し飛ばした。
「は?」
とその衝撃に気付くと同時に左武は、数m先の壁へと叩き付けられていた。
ゴッ。
と壁と左武の身体から、鈍くて重い音がして、女は、
「どーうしよっかなあ?」と一応なやむふりをした。「頼まれてるのは、こっちのブタ野郎だけなんだけど」と怯える船場を一瞥し、「お兄さんかわいいし、あとでたーっぷり、相手したげるわ♡」
そうして――?
*
『ふふっ、ふ、ふーふ、ふふん。
ふふー、ふ、ふーふ、ふふ、ふふん。
ららら、ら、ららっ、らーら、ららん。
ららー、ら、ららー、ららー。』
とそうして、ヤスコとミスターが部屋を訪れる数時間前、彼、藤間和雄は、自身の死期を悟ると同時に、その死を引き連れて来た男の言葉に素直に従っていた。男は言った。
「ねえ、見せて下さいよ、藤間さん」やわらかなシルクや不純物を取り除いた蜂蜜のような声だった。「見せてくれれば、僕が引き継いであげられますから」
男がどのようにして藤間のこと、藤間に能力があることを知ったのかは分からなかったが、能力そのものについてはまだ何も知らない様子だった。
「引き継ぐ?」彼は笑った。苦笑した。引きつった笑顔で。か細く震えながら、「僕を殺してか?」
最初に受けた衝撃波のようなもので、身体の中身がいくつかダメになっているのは藤間にも分かっていた。
「残念ながら」男が笑った。嬉しそうに。なんて慈愛に満ちた目なんだと藤間は想った。「ひとつの力は、誰かひとりにしか持てないようなんですよね」
身体の中の痛みがゆっくり、しかし確実に広がって行くのを感じながら藤間は、この男は樫山ヤスコの関係者ではないか? そう考えた。何故ならこれまで、彼が能力のことを伝えたのは彼女しかいなかったからである。がしかし、男はそれを否定した。ヤスコのことすら知らない様子だった(本当に?)。ただし、
「樫山?」という彼女の苗字には一瞬反応した。「いえ、そんな女性は知りませんね」
「引き継ぐ?」藤間和雄はくり返した。身体の中の痛みは、頭の先からつま先まで、全身に行き渡ろうとしていた。「僕を殺して?」
「あなたを愛してですよ」男は答えた。微笑みながら。救世主がいるのなら、こんな顔をしているのだろうな、そんな風に藤間は想った。こころの底から。男は続けた。「僕ならそれが出来ますよ」と。「僕ならあなたを、愛してあげられますよ」
実際のところ藤間和雄は、誰かから愛された記憶もなければ、家族や社会から必要とされた経験もほとんどなく、そのことに対する失望感・絶望感は、年齢を重ねれば重ねるほど強いものになっていたので、遅かれ早かれ――くそったれ――この失望感・絶望感は、いずれは彼を殺しただろう。
『ふふっ、ふ、ふーふ、ふふん。
ふふー、ふ、ふーふ、ふふ、ふふん。
ららら、ら、ららっ、らーら、ららん。
ららー、ら、ららー、ららー。』
そうして、実際のところ、多くの中年男性がそうであるように、藤間和雄の過去に希望はなく、その未来には絶望だけがあった。彼は待っていた。何を?
「ああ、そうか」
とここに至ってようやく彼は、その死の直前に至ってようやく彼は、ようやく自身の待っていたものを理解することになった。
彼が待っていたのは救世主だった。
彼がベルを鳴らしてくれることを、彼が扉を叩いてくれることを、彼ならきっと、ただ生きて来ただけのあらゆる人間を愛し、赦し、その罪の償い方を教えてくれるであろうことを。
「すこし……、はなれて……」
全身の痛みは、いまや喜びに近いものへと変わっていた。
「たぶん……」藤間和雄はほほ笑んだ。生まれて初めて、こころの底から、「一回しか……、見せられません」
直後、ひかり輝く氷の結晶たちが彼らのまわりを覆い、更にその一瞬後、それは大小いくつもの氷の珠玉へと変わり、浮かび、部屋を埋め尽くした。
「すごい」男は言った。ため息を漏らした。ひかりの乱反射は目も眩まんばかりであった。「すばらしいです、藤間さん」
(続く)




