その8
「天台の指示?」左武文雄は訊き返した。「それって、あの天台烏山か?」彼の上司・小張千秋がその名前にこだわっていたことを想い出した。「あの化け物おんな、天台烏山の部下か何かか?」
この時点で左武は、マリサ・コスタ――彼の同僚たちを素手で倒したあの外国人――の噂を聞いてはいたものの、彼女の外見その他の情報にはまだ接しておらず、その為、現在遭遇している『化け物おんな』オフェリア・モンタルトの身体が、彼女と同じであることに気付いていなかった。と言うのも彼は勝手に、マリサ・コスタをまた別のタイプの化け物――2m近い緑肌の怪物――のように想像していたからである。
「ぶ、部下、じゃあない」船場偉月は応えた。「が、く、くそ、お、俺、俺が出しちまった」彼自身がこれまでに行って来た悪行、あるいは、天台のような人間たちから請け負って来た『よくない仕事』を想い出していた。「け、け、消され、くそっ。ネコが、ネコがいるんだ、刑事さん、頼む。助けて、なんでも、なんでも話すから」
そうして、それからそのまま彼は、その流れのままに、まるで司祭に懺悔する悪童のように、これまでの悪行や請負仕事の内容を想い出すまま語って行った。とてもあせった口調で。左武の了解も取らぬまま。正直こんな状況でそんな話をしても何の意味もないだろうが、それでもただただ、罪を告白すれば許される、生前および死後の罰が、少しでも軽減されると信じ切っているかのように。が、しかし、
「が、しかし」そんな彼の告白も、いまの左武には届いていなかった。なぜなら彼は、こう考えていたから。「では、どうやって?」
正直、いまのところは、彼と天台が繋がっていることさえ分かればそれでよく、詳しい内容は、ふたり生き延びてから聞けばよい。そう。とにかく今は、生き延びることが先決である。と、あの女の底意のない悪意を想い出しながら、彼はそう考えていたのである。「では、どうやって?」と。そうして――いや、それにしても、
「そう。それにしても」左武はつぶやいた。
いま彼らは、左武の『他人のこころが聞こえる能力』のおかげで、女の接近を感知し、逃げ、どうにか身を隠しているが、女の方はどうやってこちらを見付けているのだろうか?
実際、ここに来るまでも彼らは、二度ほど彼女を煙に巻くチャンスはあった。がしかし、その都度、相手は、何らためらった様子もなく、彼らの後ろに、あるいは前に、不意に現われて来たのである。船場のスマホか? いや、それなら彼の事務所机の上にあった。今ごろきっと、あの机の下敷きにでもなって――うん? とここで左武は何かに気付いた。と言うのも、
「それから、そう、それから天台のところのごろつきどもに金を渡して、あの女を襲うよう仕向けたんだが、あれも元々はあちらからの指示で、俺は言われたとおりにしただけだし、あいつの旦那が疑われるよう吹き込んでまわったのだって、それも彼らに言われて仕方なく――」
と、こんな船場の告白よりも左武は、彼の身の回りの物を観察していたからである。
そう。このとき彼は、その巨体に合わせた(趣味の悪い)オーダーメードのスーツを着、荷物は持っていなかった。小物を入れたクラッチバッグも机の上に置かれたままだし、タバコとライター以外、スーツのポケットには何も入っていないように見えた。履いている靴も、物はいいかも知れないがかなり履き古されていて――、
「おい」とここで左武は訊いた。「胸のそれ、なにかおかしくないか?」船場の弁護士バッヂを指差しながら、「それって普通、金とか銀だよな?」
*
日本弁護士連合会が登録弁護士に貸与する弁護士記章(弁護士バッヂ)は通常純銀製。それに金のメッキが施され、表面には16弁のひまわり草と一台の天秤が配されている。裏面には『日本辯護士連合會員章』の文字と弁護士登録番号、それに「純銀」の品位表記と「造幣局製」の文字が刻まれている。そうして、この金メッキが使い込むうちに剥がれると、地金の銀が見えて来ることにもなるわけで、それで左武も、
「それって普通、金とか銀だよな?」
と船場に訊いたわけである。であるが――、
*
「くっそ!」船場偉月は叫んだ。「きっとあの再発行の時だ!」
と言うのも、彼のバッヂの剥がれた部分、そこが明るい銀ではなく、鈍い灰色になっていたからである。
「どうして気付けなかった!」彼は叫んだ。「ずっと! 身に付けていたのに!」
そう。それは確かに精巧に出来たレプリカであり、彼の居場所を報せる発信機でもあった。彼はあるとき、本物の弁護士バッヂを失くし、その再発行品であるこのレプリカが届くのと時を前後して、天台烏山からの仕事を受けるようになっていたのである。
「あの女! これを追って来てやがる!」彼は叫んだ。
ちなみに。これはまったくの余談であるのだが、弁護士バッヂに施された意匠のうち、ひまわりは正義と自由を、天秤は公正と平等を意味しているのであった。そうして――?
*
そう。そうしてその部屋は、入念過ぎるほど入念に掃除が施され、消臭スプレーの匂いで少々むせ返るほどであった。が、すると、そんな客人たちの様子に気が付いたのだろうか青年は、
「ああ、すみません」と人懐っこさを感じさせる声と表情で、「お客さまが来るのもひさしぶりなので、ついつい撒き過ぎちゃって」そう続けて、部屋の奥の窓を少し開けた。「どうぞ、どうぞ、おかけ下さい」
青年は背が高く、細身で、すこしやつれた肌をしていて、大変愛想がよく、うながされるまま部屋中央のテーブルに座るヤスコをして、
「なんだか救世主みたいね」と想わせる顔立ちをしていた。それに、「メールで想像していたのと雰囲気ちがうわね」とも。
「ミスター?」玄関の方をふり返りながら彼女は訊いた。「どうしたの? はやく来なさいよ」
なぜなら彼が、玄関先に立ったまま、この部屋全体の様子を――ここは単身者用のせまい1Kだったが――見ていたからである。
「あ、ああ、ごめん、ごめん」彼は応え、「ちょっと考えごとを」と言って靴を脱ぎつつ部屋にはいった。
初対面だからだろうか、それともその青年に不穏な何かを感じたからだろうか、それは分からないが、このときミスターは、いつものように、レンチで部屋や青年を突然スキャンするようなことはしなかった。が、しかしそれでも、このとき、彼が中に入るのを躊躇したのは、そこの、部屋の玄関から洋間にかけての空間に、微妙な時空間位相のずれを感じたからだった。そうして――?
*
「すばらしい、美しいよ、なんて美しい能力なんだ、これは」
そう。そうしてしばらくしてミスターは叫んでいた。興奮気味に、
「物質や空気中にある水分を一気に結晶化してるってことですか? 藤間さん」と。
そう。それは確かに、大小様々な氷の珠玉であった。
それらは光り、輝き、小さなものはラムネに入ったビー玉サイズ、大きなものは子ども向けのハンドボールほどのサイズがあり、それらの中には様々な――色とりどりのチョコとか消しゴム、机に置かれた万年筆やミニチュアローズ――等々が入れられていた。
「理屈はよく分かりませんが」と青年――自称・藤間和雄――は応えた。「ただ、それでも、出来るんですよ」
が、もちろん、既に皆さまお気づきのとおり、彼が見せているこの能力は、この数時間前、彼が本物の藤間和雄から無理やり奪い取った能力であり、彼――灰原神人――がこの能力を使えていると言うことは、本物の藤間和雄は、既にこの世界から消えていることを意味してもいた。
(続く)




