その5
藤間和雄。
この悲しき中年男性について私はほとんど何も知らないし、それは、彼の死後、彼の経歴を読み、彼の過去の友人・知人に話を聞き、彼のSNSへの書き込みその他を見ても大して積み増されることはなかった。ただ、それら情報のすき間・行間に見え隠れする光や暗闇、それに彼が持ってしまい、また奪われてもしまった特殊な能力を合わせ考えるとき、少なくとも彼の生涯の末ごろには、彼の頭の中に雷鳴を伴った嵐が吹き荒れていたであろうことは想像に難くないし、そんな嵐や雷鳴のただ中で、彼が会社を辞め、自宅に引きこもり、友人・知人と距離を置き、また稀に、奇妙な言動あるいは暴言を世界に吐き捨てていたとしても、それはもちろん同情され、許されるべきことでもあった。
と言うか、もっと言えば、彼が最後に放ったSOS、救難信号――それは我々のよく知るあの貧乏小説家・樫山ヤスコに向けたものであったが――が結局、彼の人生を引き伸ばす助けとならなかったどころか、ともすれば縮める方向に働いてしまったことは、やはり、悲劇と言ってよいのかも知れない。
*
そう。
その日の朝、藤間和雄は、早起きをし、ひさしぶりに風呂に入り、身体を洗い、髪も洗い、髭も剃った。シャツを着、ズボンを履き、窓を開け、散らかり放題だった部屋を片付け、掃除機をかけ、拭き掃除もした。すこし匂いが気になったので、戸棚の奥からスプレータイプの消臭剤を取り出した。気になるところ――それは部屋全体という意味だったけれど――にかけてまわった。恋人がいた時代ですらここまで入念に部屋を掃除したことはなかった。リビングのソファに座り、飲み物の算段を始めたところで彼は、自身の汗のにおいに気付き、ふたたび風呂にはいり、身体を洗い、髪も洗い、新しいシャツとズボンに着替えて、歯をみがいた。
そう。
この日の彼は動揺し、高揚し、わずかな希望・期待をつかもうと浮足立っていた。彼の足が浮き上がろうとしていた理由は、今日来る予定の客人が女性だったからだけではなく、もちろんそれも少しはあるが、その彼女が、ここ数年の彼の悩みを真摯に、少なくとも笑い飛ばさずに、聴いてくれる可能性が高かったからである。しかも、彼女の友人ひとりも一緒に。
そう。
ここ数年、彼はある悩みを抱いており、それが彼に会社を辞めさせ、自宅に引きこもらせ、結婚を前提に付き合っていた恋人とも別れさせたし、友人・知人との縁を切らせてもいた。
彼は悩み、傷付き、その悩みを誰かに話したり、あるいはネットの海に流したりすることで更に傷付き、悩みを積み増していた。彼はただただ、どうにかして正常に、いや、せめて他人を傷付けないようになりたかっただけなのに、である。
そう。
本日来る予定の女性とその友人は、そもそもあちらから彼にコンタクトして来ていたし、彼の能力についても既に半分信じており、
『出来ればもっと詳しく』とか、
『可能であれば、その能力も見せて頂きたい』とか、
と、そう言って来たのである。
『ひょっとすると、お力になれるかも知れません』と。
そう。
これがこの日、彼の足が浮き上がりかけていた理由であり――彼はそれまでただひとり、ひとりっきりで年老い死んで行くものだとばかり想っていたのだが――そこで生じた油断が、その後の悲劇に繋がることになったし、そのため、『年老い』以外の予想も当たることになってしまった。何故なら、
ピンポーン。
と玄関のベルが鳴ったとき彼は、いつもの警戒感を既に半分失くしていたからである。
「もしもし?」彼は訊いた。ドアフォンに向かって、「どちら様ですか?」
『※※運輸ですが』男が答えた。ドアフォンの向こう側で、『藤間和雄さまにお届け物が』
「ああ、はいはい。置き配でもいいですかね?」
『えーっと? すみません。認めでよいので印鑑を』
「あー、はいはい、分かりました」
とここで、いつもの彼ならば、その荷物の依頼主あるいは配達員の名前を訊くなどして、この配達員に不審な点があることに気付き、ひょっとするとそこで、なんらかの回避行動を取れていたのかも知れないのだが、先述したとおり、この日の彼は浮足立っており、警戒心が足らず、そのまま扉を開けてしまうことになり、そのため彼は、
ドンッ!
と空気の固まり、あるいは空間位相のズレによって、後方へと弾き飛ばされることになってしまった。重く、大きく、遠くへと。
彼を弾き飛ばしたのは男で、配送業者の制服を着ていたが、頭には何故かグレーのハンチング、その横顔は、ようやく降臨した預言者のようであった。
*
船場偉月。
これは、例の巨漢弁護士の名前だが、この哀れな中年男性についても私は、ほとんど何も知らなかった。がしかし、こちらはその死後、彼の経歴や関係者の証言、それに彼の日記やSNSへの書き込みその他を見ることで、『ああ、なるほど……』と、彼の大まかな主義や主張、人物像をつかむことは出来た――と言うことは、それだけ彼が薄っぺらな世界観・人間観のみで人生に対処していたということなのだが、彼は要は、金の亡者で悪人で、自身の金儲けの言い訳によく知りもしない新自由主義を唱えては、我こそはその体現者だとうそぶき、時々呪わしいことを考えただけでなく、実際に、自覚症状もないまま、その呪わしい考えに基づいて動き行動し、「あの人だけはね、許せませんよ、あたしはね」と温厚篤実を絵に描いたような中華料理店の老店主に言わしめるような男であった。
彼は憎まれ、嫌われ、しかし金だけはごまんと持っていて、しかも、自分には謝罪すべきことなど何もなければ、アホな貧乏人から許してもらうようなことも何もないという考えで生きていたし、そもそも彼は、どんな人間をも愛したことがなく、その必要もないと考えているような男だった――まあ、それでも、家で飼っている三匹の猫には無償の愛を注いではいたようだが。
なので、まあ、そうして結局、この彼の狭隘な人間観・世界観が、彼が今回の悲劇を見抜けなかった、逃げ切れなかった、その遠いが決定的な理由なのかも知れなかった。彼はあまりに金は金、ビジネスはビジネスと割り切りあなどり、彼の敵対者や依頼者が、それらとはまた違う原理や原則で動いていることにあまりに無頓着だったのである。
*
そう。
その日の午後、船場偉月は、昼飯をたらふく食ったあと、先ずは二人の客と相対することになった。ひとりは熊のような刑事で、ひとりは彼の上司というか、このエリアの警察署長でもあるらしい、小柄で若い女性だった。偉月は言った。
「たしかに。彼のことは知ってますがね」と彼らにソファを勧めながら、「だからと言って、彼がその男の弁護人になるかどうかなんて分かりゃしませんよ」
彼の事務所は空き部屋の多い雑居ビルの四階。部屋はせまく、壁はぼろぼろ、イスも机も中古が二つずつ。六十代の女性を経理兼雑務担当のパートで雇用していたが、この日彼女はここにはおらず、当然来客へのお茶等のサービスもなかった。彼は続けた。
「私も彼には」と背広の内ポケットから煙草を取り出し、「どうです?」と熊のような刑事・左武文雄に訊きながら。食後の一服がまだだったからである。
「あ、いえ、私は」左武は断わったが、すると、これも彼なりの礼儀のつもりなのだろう、今度は、一瞬ためらった後、その横に座る女性・小張千秋にそれを勧めた。「署長さんは? いかがですか?」
が、もちろん小張もこれを断わり、仕方がないので船場偉月は、「それでは失敬して」と煙草に一本火を点けた。「私も彼には」話を続けた。
(続く)




