その1
山岸富士夫は今でも――雨の音で起きてしまった真夜中や誰もいない快速列車に乗ってしまったときなんかに――説明し難い喪失について嘆くことがあった。
この喪失は言わば、『かつて一度も現実になったことのない過去』であり、『初めから持っていなかった胸の痛み』のようなものであったが、この喪失について考えるとき山岸富士夫は、必ず、悲しみの小袋をいくつも用意し、そこに小分けにした喪失をしまい込みながら考えることにしていた。何故ならその喪失は、あまりにも大きい、いや、サイズでは表せられない性質のものであるため、それらすべてをまとめて考えるには、彼のこころはあまりに弱く、そうしてあまりに優しかったからである。
そう。その喪失とは、彼が知らないうちに生まれ、そうして、彼が知らないうちに亡くなった、彼の娘についての喪失であった。
その子の母親の名前は山賀理主と言った。
彼らが初めて会ったのは、ある朝のバス停で――と、この辺りの事情は前にも書いた通りなのでここでは繰り返さないが――要は、いわゆる男女の出会いがあり、幸運と幸福があり、すれ違いがあり、怒りがあり、別れがあり、もう再び会うこともないだろうと想っていた頃に、風のうわさで彼女の結婚の話を聞き、これでいよいよ本当に会うこともないだろうと想っていたところ、とあるパーティーで――いま想えば、それは例の天台烏山が主催するパーティーであったが――偶然にも彼と彼女は再会していた。
彼女は美しく、夫と一緒で、女性たちは彼女の服よりも表情を褒め、男たちは彼女の顔やスタイルよりもそのちょっとした仕草に目をとめ好意を抱いていた。彼女は、彼の知る彼女とは同じだが明らかに違う人物になっていた。
この違いについて山岸富士夫は、きっとその夫が原因であろうと考え、彼が飲みものを取りに行き、理主とふたり切りになったタイミングで、そのことを彼女に伝えた。嫉妬がなかったかと言えば嘘になるが、それでも、あくまで祝福の意味で。
彼女は、そんな彼の言葉に静かに笑うと、目の前の男があまりにもバカで、愚鈍で、救い難いほどの善人かつ憐れな男であることを改めて想い出した。が、それでも、彼女には言わなくてはならないことがあった。不意に、その言葉が口をついて出た――あのね、富士夫さん。
「あのね、富士夫さん」出来得る限りの優しい声で、「ひかりが死んだわ」と。
*
「どうした? 急に。ひさしぶりじゃないか」
そうしてそれから十五年が経ち、彼は一本の電話を取った。彼女がどうして、あのパーティーで偶然出会うまで、自身の妊娠も出産も娘の名前も彼に伝えなかったのか、その理由を、本当のところを、彼は永久に知ることはないだろうし、今回どうして彼女が、次の言葉を彼に伝えようと想ったかについても、彼は一生知ることはないだろう。女性はいつでも、世界の謎だ。彼女は言った。途切れがちな電話の向こうで、
『驚かないでね、富士夫さん』と。出来得る限りの優しい声で、『ひかりが生きてたわ』
*
さて。
死んだとされた赤ん坊がどうして生きていたのか? この件についてはいくつかの説明が必要となるので、すこし順を追って話して行きたい。
そう。
先ずは、出産前後の理主が出会った、紳士と修道士と朱い顔の悪魔について想い出して頂きたい。
彼らはそれぞれ、生まれて来る赤ん坊に対して、何やら予言めいたものを残し、それらはまるで、彼女と赤ん坊に彼らの加護を贈ろうとしているかのような口ぶりでもあった。特に最後の悪魔については、その子は、彼の契約者のひ孫でもあったわけだから。
あ、いや実際、彼は時々彼ら母娘の様子を見に行っていたし、可能であり機会があるならば、どうにかして理主と富士夫の仲を取りなせないかとすら考えていた。彼にとっても富士夫は孫のような存在だったし、やはり父と子が離ればなれであることを、過去の歴史や人間観察から、すこし憐れに想ったからでもあった。悪魔のくせに。
そうして、そのため――と言うか、にも関わらずと言うか――問題の事故が起きた日、なにかを感じ取った彼は、東石神井の花盛りの家を出ると、文字通り空を飛んで現場に向かい、いままさに救急車で運ばれようとしている母と娘、それにその祖母を確認、病院までついて行った。がしかし、彼は悪魔で、魂は奪えても、失った生命や魂を取り戻すことは出来ない。そこで彼は、
「すみません、奥さま」と失意のもと、赤ん坊の死を、彼の契約者に伝えることになった。「残念なことに、ひかりさまは――」
が、更にしかし、これは彼の早とちりと言うか属性上仕方ない見落としで、彼が彼の契約者に一連の状況を説明している間、問題の病院では、また別の、新たな状況が発生していた――死んだはずの赤ん坊が息を吹き返したのである。黒衣の修道士の手によって。
が、あ、いやもちろん。この『復活』は病院の記録には残されていないし、赤ん坊が息を吹き返した場面も、そこの医師や看護師は誰ひとりとして見ていなかった。何故ならそのとき、そこに運ばれた赤ん坊の身体は、すでに病院の屋上へと運び出されていたからである。葦で編まれたかごに入れられ、うすい茶色のアフガンにくるまれ、雨のそぼ降るその中を、ここなら誰にも咎められず、また幾分天の国に近い――とその修道士が考えたからである。
彼は祈った。
彼女は希望である、と。こんなところで終わってよいはずがない、と。
彼は祈った。
厚い雲にすき間が出来、陽の光が彼らを照らしてくれることを。
彼は祈った。祈り続けた。
その体温に奇妙な違和感を覚えたものの、それでも、かごの中の赤子を抱きかかえ、彼の信じる何者かに向かって、彼は祈った。
うぇ、え、けほ。
小さな呼吸が彼の耳に届いた。たしかな振動とともに。彼は空を見上げると――それでもその子の体温に奇妙な引っ掛かりを覚えながら――彼が信じる何者かに、感謝の祈りを捧げたのである。
「おお、主よ、よくぞ奇跡を――」
が直後、彼らを照らす陽の光が突然に消えた。布の赤子の体温も、いや、その感触そのものが、
ぼろっ。
と突然消えたのである。
はっ?
と彼はおどろきうろたえ、急いで布の中をのぞいてみたが、しかし、そこには、冷たく小さな虚空が、ただ張りつめたようにくるまれているばかりであった。
「主よ!」彼は叫んだ。「これはいっ――」
が、その叫びを打ち消すように、応えるように、彼の身体もまた虚空――この宇宙の虚数空間へと消されて行くのであった。そうして――?
*
「おー、よしよし、かわいいねえ」
とそうして、丁度その頃、残ったひとり、老齢の紳士はひとりの赤ん坊――山賀ひかり――をその手に抱いていた。交通事故で負った傷は彼の手中ですっかりと癒え、声は出さなかったが、紳士の顔をじっと見ては、にかっと目をほころばせていた。
コンコン、コンコン。
誰かが部屋のドアを叩いた。
「どうぞ」紳士は応えた。部下が入って来ると同時に、「どうかね? 病院の方は」
「修道士がひとり」部下の女性は答えた。「彼女を連れ去ろうとしましたので、その場でフェイクを解きました」
「ふむ」紳士は続けた。「この子の里親は? 誰かよさそうなのはいたかね?」
「ふたりまでは絞り込めましたが」部下の女性・友枝久香は答えた。二つのファイルを並べながら、「最後は会長に選んで頂かなければ」
「ふむ」老齢の紳士・天台烏山は答えた。それぞれファイルを一瞥し、「そっちの、メガネの男」中身は読まず、表に添えられた写真だけを見て、「方舟でも造りそうな顔をしてるな――奥さまの写真は?」
「祝部優太」久香は答えた。ファイルをめくり、妻の写真を見せた。「特に目立った仕事はしておりませんが、仕事ぶりは真面目で、会長の言われた条件にあてはまるかと」
「ふーむ」天台は応えた。優太の妻・守希の写真をじっと見ながら、「彼らにお子さんは? 出来ないんだな?」
「はい」久香は答えた。すこしだけだが言い淀み、「それは、間違いなく」
「ふむ」天台は言った。「では、彼らにしよう」手中の赤子に向きなおり、「よかったねえ、ひかりちゃん。今日から彼らが、君のパパとママだよ」
きゃはっ。
ようやく赤子が、声を出して笑った。
(続く)




