ゼロの宿命
残された俺たち六人は、言葉を失って立ち尽くした。
死んだのではない。四十二番という並行世界そのものが、今この瞬間に「なかったこと」になったのだ。
「『駅の時計』だと……?」
八番の将軍が剣の柄を握りしめ、呻くように言った。
「まさか、十年前の『あの日』か!」
十年前の四月十二日、正午。
中央駅を発車した大陸横断列車『銀星号』が、街外れの鉄橋で脱線し、谷底へ転落して乗客全員が死亡した大惨事。
俺たち九十九人のレオンは全員、あの日、銀星号の切符をポケットに入れて中央駅へ向かっていた。そして全員が、それぞれの理由で正午の発車に間に合わず、命拾いしたのだ。
一番は、駅の階段で論文の束をばら撒いて拾い集めていたから。
十三番は、路地裏でスリと殴り合いの喧嘩になったから。
四十二番は、楽器屋のショーウィンドウのピアノに見惚れていたから。
そして俺――七十四番は、靴底が剥がれて駅のベンチで針金を巻いていたから。
あの日、列車に乗り遅れたことで俺たちの命は繋がり、そこから九十九通りの人生へと枝分かれした。
だが、その銀星号の三号車には、俺たちの幼馴染であり、誰もが密かに想いを寄せていた少女『イリス』が乗っていた。俺たちは全員、イリスを失った喪失感を抱えたまま、それぞれの十年間を生きてきたのだ。
「一番、説明しろ! なんで十年前の時計が今さら動くんだ!」
十三番が白衣の胸倉を掴み上げた。一番は脂汗を拭いながら、早口でまくし立てた。
「この円卓には、最初から一度も席に着いたことのない空席があったのを覚えているか?」
俺は円卓の最も奥、一番の隣にある、番号すら刻まれていない白紙の椅子を見た。俺たちが通称『零番』と呼んでいた席だ。あの日、唯一列車に間に合ってしまい、イリスと共に谷底へ落ちて死んだはずの「最初の俺」の席だと、誰もが思っていた。
「零番は、あの日死んでいなかったんだ!」
一番が黒曜石の円卓に爪を立てながら叫んだ。
「俺の世界の量子観測網に、数日前から異常な時間干渉波が記録されていた。誰かが、未来から十年前のあの日へ干渉しようとしている! 零番のやつめ、どこかの世界で時間遡行の技術を手に入れやがったんだ!」
「過去を変えて、どうするつもりだ?」
「決まっている! 十年前のあの日、俺たちが列車に乗り遅れた原因を取り除いて、俺たち全員を銀星号に乗せようとしているんだ! イリスを救えなかった絶望で気が狂って、すべての並行世界の自分をあの列車に閉じ込めて心中する気だ!」
その瞬間、八番の将軍の体が激しくブレ始めた。彼に続いて、残っていた他の二人のレオンも同時に輪郭を失っていく。
「くそっ、俺の番か! 一番、止められないのか!?」
「今、逆探知の座標を計算している! 零番の世界の因果律をこちらから焼き切れば、干渉を強制終了できるはずだ! あと一分くれ!」
一番は円卓の上に光のチョークで膨大な数式を書き殴り始めた。
八番たちが次々と砂になって消えていく。十三番のマフィアも、自分の胸元が透け始めたのを見て忌々しげに舌打ちした。
「ちっ……せっかく街を一つ手に入れたってのに、十年前の亡霊に殺されるとはな。おい、七十四番! ボサッと突っ立ってないで一番を手伝え!」
十三番もまた、紫煙のように消滅した。
広大な白亜の劇場に、ついに一番の物理学者と、七十四番の俺の二人だけが残された。
「できたぞ……! これが零番の干渉源を破壊する逆流コードだ!」
一番の足元もすでに消えかけていた。彼は半透明になった指先で、円卓の中央に浮かび上がった赤い紋様を指し示した。
「俺はもう指が動かない! 七十四番、お前がその紋様を踏み砕け! そうすれば零番は消滅し、俺たちの『現在』は守られる! 早くしろ!」
俺は円卓の中央へ駆け寄ろうとして――ぴたりと足を止めた。
頭の中で、何かが引っかかっていた。
俺はこれまでの数年間、九十八人のレオンたちが酒の肴に語る「あの日の思い出話」を、一言一句漏らさず議事録に書き留めてきた。
そして、自分の仕事部屋で何百回となく修復してきた「十年前の鉄道局の古地図と事故調査書」の記憶が、パズルのピースのように噛み合い始めたのだ。
「……待てよ、一番。おかしいぞ」
「何がおかしい!? ぐずぐずするな、お前まで消えるぞ!」
「さっき四十二番は、消える直前に『駅の時計が動いている』と言ったよな。他の連中が乗り遅れた理由も、俺は全部議事録に書いてきた。一番、お前が論文を落としたのは、突然強い突風が吹いたからだ。十三番にぶつかってきたスリは、顔をフードで隠していて財布すら盗らずに逃げた。俺の靴底が剥がれたのは、駅の入り口に不自然な釘が落ちていたからだ」
俺は、誰も座っていない『零番』の白い椅子を睨みつけた。
「九十九人全員が、同じ日の同じ時刻に、そんな都合のいい偶然で揃いも揃って列車に乗り遅れるわけがない。……逆なんだよ、一番!」
「逆、だと?」
「零番が俺たちを列車に乗せようとしているんじゃない! あの日、俺たち九十九人の足を引っ張って、銀星号に乗り遅れさせた張本人こそが『零番』だったんだ!」
一番が目を見開いた。
「馬鹿な……じゃあ、なぜ今になって俺たちの世界が消えている!? 俺たちを救ったはずの零番が、なぜ俺たちを消す必要がある!」
「消された順番を見ろよ!」
俺は石の塊になった議席を指差した。
「最初に消えたのは、イリスの死を忘れて富や名声に酔いしれていた連中だ。そして最後まで残ったのは、時間物理を研究していたお前と……十年間、ただの一度もあの日を忘れられずに、事故現場の古地図ばかり修復していた、一番未練がましい俺だ!」
背筋に熱い電流のようなものが走った。すべてが繋がった。
「たった一人の人間が過去を改変しようとすれば、時間の反動に押し潰される。だから零番は十年前、まず『自分が列車に間に合わず生き残る九十九通りの並行世界』を意図的に枝分かれさせたんだ! 俺たち九十九人に十年間を生きさせ、その膨大な『人生の質量』を蓄えさせた!」
「まさか……俺たちの十年間は、最初から……!」
「ああ。今夜、十年分の九十九人の歴史をすべて『燃料』として統合し、たった一つの決定的な改変を行うための予備タンクだったんだよ! 零番の目的は心中なんかじゃない。俺たち全員の可能性を一つに束ねて、イリスだけを列車から降ろし、自分一人が身代わりになって銀星号に乗るつもりなんだ!」
「ふざけるなッ!!」
一番が喉を裂くような声で叫んだ。その体はすでに胸元まで光に溶けかかっている。
「十年前に死んだ女一人のために、俺が築き上げた研究も、九十九人分の人生も、全部ただの燃料として燃やす気か! そんなこと許してたまるか! 押せ、七十四番! そいつを踏み砕いて、零番を止めろ!」
一番の声は、そこで途切れた。
光の粒が弾け、白亜の円卓にはついに俺一人だけが残された。
俺の指先も、すでに淡く発光し始めている。残された時間はあと数十秒もないだろう。
目の前には、一番が遺した赤い逆流の紋様がある。これを踏み抜けば、零番の計画は頓挫し、俺の平穏な日常は守られる。
何もしなければ、俺は消滅し、イリスが生き残る代わりに「レオン・ヴァイスが十年前に死んだ世界」が完成する。
成功者たちの誰一人として選べなかった、究極の二択。
だが、俺はしがない古地図の修復師だ。世界の法則は変えられなくても、古い図面の誤りを正すことにかけては、九十九人の中で俺が一番の専門家だった。
「……どっちも却下だ、馬鹿野郎」
俺は一番が書いた赤い紋様を靴底で擦り消すと、今まで誰も座ったことのなかった『零番』の白い椅子へと飛び乗り、その向こう側――すべての並行世界が収束していく眩い光の渦へ向かって、腹の底から叫んだ。
「おい、零番! 聞こえてるんだろ!? お前は時間物理の天才かもしれないが、十年前の古地図と車両図面を読んでないだろ!」
光の渦の奥で、確かに誰かが息を呑む気配がした。
俺は消えかかる自分の記憶の中から、何百回もトレースして頭に叩き込んだ『銀星号事故調査書・極秘付録』の図面を強く思い描き、渦の中心へ叩きつけるように言葉を紡いだ。
「お前、今から三号車に乗り込んで、非常ブレーキを引いてイリスを降ろす気だな!? 絶対にそのブレーキを引くな!!」
俺の両足が光となって崩れ落ち、膝が椅子に沈む。それでも俺は叫び続けた。
「あの日、銀星号が鉄橋で脱線したのはスピードの出し過ぎじゃない! 俺が修復した鉄道局の極秘記録にはこう書いてあった! 『三号車の床下にある古い連結器の上で誰かが非常ブレーキを作動させたため、車輪がロックして共振を起こし、鉄橋の支柱をへし折った』とな!」
つまり、あの日イリスを殺した脱線事故そのものが、未来からやってきた零番がイリスを救おうとして引いた非常ブレーキによって引き起こされていたのだ。
ブレーキを引けば、イリスも零番も死ぬ。それが十年間のループの正体だった。
「引き剥がすのはブレーキじゃない! 三号車と二号車の間にある『旧式連結ピン』だ! 当時の車両図面を見ろ、外側のステップから鉄パイプを一本噛ませて蹴り上げれば、ロックが外れて三号車以降だけが駅のホームに置き去りになる! お前が身代わりになる必要なんて最初からなかったんだよ、いけ好かない天才め!」
俺は自分の頭の中にあった十年前の路線図、車両の設計図、そして九十九人の俺たちが十年間で積み上げたすべての記憶を、最後のひと雫まで光の渦へと放り込んだ。
「俺たちの十年分の燃料、全部くれてやる! だから――絶対に二人とも生き残れよ、俺!」
渦の奥から、確かに俺自身の声で「ああ、受け取った」と聞こえた気がした。
視界が真っ白な光に塗り潰され、白亜の円卓が音もなく崩壊していく。
「――おい、レオン! いつまで突っ伏して寝てんだ、レオン!」
首筋にひやりとした感触が当たり、俺は弾かれたように顔を上げた。
窓から差し込む朝の光。鼻をくすぐる古い羊皮紙と膠の匂い。
見慣れた自分の古地図工房だった。頬には羽根ペンのインクがべったりと張り付いている。
「……あれ。俺は、確か……」
頭を振ったが、どんな夢を見ていたのか、朝霧のように輪郭が掴めない。どこかの広い部屋で、大勢の自分自身と大喧嘩をしたような気もするが、それが何だったのか思い出せない。
「まったく、徹夜仕事もいいけど体を壊すわよ。ほら、冷たい水」
目の前にブリキのコップを置いた女性の声に、俺の心臓が跳ね上がった。
ゆっくりと顔を上げる。
そこには、亜麻色の髪を後ろで束ね、呆れたように微笑むイリスが立っていた。十年前から少しだけ大人びた、けれど間違いなく本物の彼女の笑顔が、朝の光の中で揺れている。
俺は震える目で机の上を見た。
昨日まで修復していたはずの「十年前の銀星号脱線事故」の新聞記事はそこにはなく、代わりに『十年前、銀星号の連結器トラブルにより三号車が切り離され発車遅延。乗客に怪我人なし』という古い新聞の切り抜きが、修復中の古地図の端に挟まっていた。
「どうしたの、レオン? 幽霊でも見たみたいな顔をして」
「いや……なんでもない」
俺はわけもなく溢れそうになる涙をぐっと堪え、コップの水を一気に飲み干した。
なぜか、自分ひとりの胸の中に、百人分の人生を生き抜いたような途方もない誇らしさと、温かい充足感が満ちていた。
「約束してた時計台の古地図、今日中には仕上がるよ。……少し、遠回りしちまったけどな」
俺がそう言って笑うと、イリスは不思議そうに首を傾げ、それから嬉しそうに目を細めた。
窓の外では、中央駅の時計台が、一分の狂いもなく新しい正午の鐘を鳴らし始めていた。




