第三十話 明治が終わる日、君を想う
明治四十五年、七月三十日。
明治天皇崩御の報が届いた朝、榊原清継は軍服を脱いだ。
四十三歳になっていた。
久世千景と出会って十九年。あの男が死んでから、十七年。
千景だけが、二十二歳のままだった。
鏡の中には、目尻に薄い皺を刻んだ男がいる。
黒髪には白いものが混じり、かつて千景が好んで触れた頬にも、年月の痕跡が残っていた。
『清継さんは、お爺さんになっても怖そうですね』
そんなことを言って笑った青年の声を、清継は今でも覚えている。
「……お前も年を取ればよかったのに」
返事のない部屋で呟き、清継は濃紺の着物に袖を通した。
*
《花霞》の暖簾は、今日も変わらず揺れていた。
「榊原様。お久しゅうございます」
八重が迎えると、清継は小さく頭を下げた。
「今日は、少し静かなところで飲みたい」
「ええ。いつものお席をご用意しております」
奥座敷には、篠塚宗一郎と藤堂朔がいた。
朔は相変わらず右脚を庇って歩き、宗一郎は相変わらず、それを気づかれぬよう支えている。
「榊原さん。お変わりありませんね」
「お前たちこそ」
「いや、こいつは最近、俺の酒まで管理するようになりましてね」
「医師として当然だよ」
「恋人としては横暴だ」
二人のやり取りに、清継は思わず笑った。
生きている人間は、変わっていく。
傷も、愛し方も、少しずつ。
「有馬さんから、お便りが届いております」
八重が一通の封書を差し出した。
透は取材のため東京を離れているという。
『榊原さん。
時代が変わるそうですね。
私は相変わらず、嘘をつく人間を追いかけています。
桐生の名を新聞に書かなかったことを、後悔した日はありません。
けれど、書けなかった名前を忘れた日もありません。
あなたも、どうかお元気で。』
清継は便箋を畳んだ。
会えなくても、生きている者がいる。
もう会えなくても、愛し続ける者がいる。
そのどちらも、間違いではないのだろう。
*
二人が帰ったあと、清継はひとり座敷に残った。
八重が新しい茶を置く。
「今日は、久世様のお話をなさいますか」
清継は少し驚いて顔を上げた。
八重は穏やかに微笑んでいる。
「昔、あの方はよく仰っていました。榊原様は、お仕事を離れると案外寂しがり屋なのだと」
「……余計なことを」
「だから、自分がいなくなったら困るでしょう、と」
清継の胸が軋んだ。
八重は言葉を続けた。
「けれど、必ず最後に付け加えるんです。『困らせたくないんですけどね』と」
千景は、最初からわかっていたのだ。
自分が清継にとって、どれほど大きな存在になっているか。
そして、自分がいなくなれば、どれほど傷つけるか。
それでも、清継を愛した。
愛してしまった。
*
清継は懐から、古い手紙を取り出した。
十七年前、千景が最期に書いたものだった。
『清継さん。
俺は、あなたと生きたかった。
あなたの軍服を脱がせる夜が、好きでした。
いつも厳しい顔をしているあなたが、俺の名前を呼ぶときだけ、少し優しくなる。
あの顔を、俺だけが知っていることが嬉しかった。
だから、本当は怖かったんです。
あなたが俺を愛してくれることが。
俺のためなら、きっと何もかも捨ててしまうことが。
あなたが築いてきた人生を、俺のせいで壊したくなかった。
でも、俺は間違えました。
あなたを守るつもりで、あなたが選ぶはずだった未来を奪った。
俺は、あなたを信じていたのに、あなたに何も選ばせなかった。
どうか、許さないでください。
それでも、最後にひとつだけ。
俺は、あなたと生きたかった。
春も、夏も、秋も、冬も。
あなたと年を取りたかった。』
清継の視界が滲んだ。
千景は、死にたかったのではない。
清継のために死ぬことを、美しい犠牲だと思っていたわけでもない。
ただ、誰かを見捨てることも、愛する人にすべてを捨てさせることも、できなかった。
その結果、自分がいちばん望んでいた未来を失った。
「……馬鹿者」
清継は手紙を握り締めた。
「俺は、お前と生きたかったんだ」
声が震えた。
「軍服など、捨ててもよかった。地位も、名誉も……お前が生きて帰るなら、それでよかった」
涙が落ちた。
十七年間、飲み込んできた言葉だった。
「……だが、お前はそれを望まなかった」
千景は清継を愛していた。
だからこそ、清継が自分のために人生を捨てることを許せなかった。
そして清継もまた、千景を愛していた。
だからこそ、千景が自分のために命を危険にさらしたことを許せなかった。
二人は、互いを守ろうとして、互いの願いを奪ってしまったのだ。
「……許さんよ、千景」
清継は涙を拭わなかった。
「お前が俺を置いていったことも、俺に何も選ばせなかったことも」
それでも。
「……愛している」
声にした瞬間、胸の奥で何かが静かにほどけた。
*
店を出る頃には、夕暮れが街を包んでいた。
八重が暖簾の内側から声を掛ける。
「榊原様。また、いらしてくださいませ」
清継は振り返った。
「……ああ。また来る」
その約束が、以前より少しだけ軽く感じられた。
帰れば、文が待っている。
宗一郎と朔は、明日も互いの小言を聞きながら暮らすだろう。
透は、どこかで新しい記事を書いている。
長野では、伊織が静江と畑を耕しているはずだ。
誰もが、失ったものを抱えながら、それでも生きている。
清継は空を見上げた。
夏の雲が、ゆっくり流れていた。
「……千景」
もう、返事を待たずに名前を呼べる。
「俺は、もう少し生きてみるよ」
明治が終わった。
あの春から、十九年。
千景を失って、十七年。
そして清継は、ようやく知った。
愛する人を忘れなくても、人は新しい時代を生きていける。
蝉の声が、暮れゆく東京に響いていた。
――第五部・完。
――『明治、君を葬る春。』本編完結。




