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第五部『明治が終わる日、君を想う。』  作者: 涼里
明治が終わる日、君を想う。
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終章 春の、その先で

大正元年、八月。


明治という時代が終わっても、東京の朝は変わらず訪れた。


新聞売りが新しい元号を叫び、路面電車が軋んだ音を立てて走る。街角では、昨日まで明治を生きていた人々が、今日から大正を生きるために働いていた。


榊原清継は、書斎の窓を開けた。


窓辺に置いた文箱には、古い手紙が収められている。


『春になったら、また一緒に歩きましょう。』


千景が残した約束だった。


「……お前は、いつも勝手だな」


清継は小さく笑った。


十七年前なら、その言葉のあとに怒りが続いた。

今は、怒りと同じだけの愛しさが残る。


許したわけではない。

ただ、許さないまま愛し続けることも、人にはできるのだと知った。


*


《花霞》の暖簾をくぐると、女将の八重が顔を上げた。


「榊原様。今日は随分とお早いですね」


「姉に追い出された」


「まあ」


「家に閉じこもっていると、千景に叱られるそうだ」


八重は少しだけ目を細めた。


「久世様なら、確かに仰いそうですね」


奥座敷には、篠塚宗一郎と藤堂朔がいた。


「榊原さん。お元気そうで」


宗一郎が微笑むと、朔が鼻を鳴らした。


「この人、朝から俺の脚の具合ばかり気にするんですよ」


「昨日、痛みが強かっただろう」


「だからって、三度も聞くな」


「四度目は控えるよ」


「そういう問題じゃねえ」


清継は笑った。


宗一郎は朔の傷を治せなかった。

朔もまた、戦場で生き残った罪悪感を捨てられない。


それでも二人は、互いの傷を消さずに、同じ朝を迎えることを選んだ。


「……羨ましいな」


清継が呟くと、朔は少しだけ困った顔をした。


「羨ましがるほど、立派な暮らしじゃありませんよ」


「それがいいんだろう」


宗一郎の返事に、朔は黙って茶を飲んだ。


*


昼過ぎ、八重が二通の便りを持ってきた。


一通は有馬透から。


『相変わらず、嘘ばかり追いかけています。


ただ最近、書かないことにも責任があるのだと思うようになりました。


桐生の名前は、今も記事には書けません。


それでも、あの男を愛したことまで、なかったことにはしません。』


清継は便箋を畳んだ。


生きているのに、会えない人がいる。

透と征一は、互いを選べなかった。


けれど、選ばなかったこともまた、二人の愛の形なのだろう。


もう一通は、長野の水無瀬伊織からだった。


『今年も、あの丘の桜は咲きませんでした。


静江は、咲かない木にも日陰はできると言って、そこで弁当を広げました。


僕は、冬馬さんのことを話しました。

静江は最後まで聞いてくれました。


いつか、新しく植えた桜が咲いたら、皆様にも見ていただきたいです。』


清継は、しばらくその手紙を見つめた。


葛城冬馬という男は、もうこの世にいない。


それでも、彼が守った青年は、今日も誰かと食卓を囲んでいる。


死者の願いが叶うとは、必ずしも死者が戻ることではないのかもしれなかった。


*


夕暮れ、清継はひとりで《花霞》を出た。

八重が暖簾の内側から声を掛ける。


「榊原様。来年の春は、桜をご覧になりますか」


清継は足を止めた。

十七年間、桜を見ることが嫌いだった。


咲けば千景を思い出し、散れば彼を失った日のことを思い出す。


それでも、あの男は春が好きだった。


『清継さん。桜って、散るから綺麗なんでしょうか』


『知らん』


『俺は、散らなくても綺麗だと思うんですけどね』


あのとき千景は笑っていた。

清継は、今になってその言葉の意味を考える。


千景は、死ぬことで愛を完成させたかったわけではない。


生きたかった。

清継と年を取り、くだらない喧嘩をして、何度でも春を迎えたかった。

その願いを叶えられなかったことが、今も悔しい。


「……ああ」


清継は八重に微笑んだ。


「来年は、見ようと思う」


*


帰宅すると、文が玄関で待っていた。


「おかえりなさい。今日は楽しかった?」


「……まあな」


「それはよかった」


文は笑い、弟の肩についた埃を払った。


「千景さんも、安心なさるでしょうね」


清継は少し考えてから、首を振った。


「いや。あいつは、安心などしない」


「どうして?」


「俺が少しでも寂しそうな顔をすれば、きっと自分のせいだと気にする」


文は、何も言わなかった。

清継は静かに続けた。


「……だから、もうあいつのために笑うのはやめようと思う」


「清継さん?」


「俺が笑いたいときに、笑う。それでいい」


文の目が潤んだ。


「……ええ。それがいいわ」


*


その夜、清継は新しい便箋を取り出した。


宛名は、久世千景。

届かないことを知りながら、筆を執る。


『千景。


大正という時代になった。

お前がいたら、きっと妙な冗談を言っただろう。


俺は今でも、お前を許していない。


お前が俺に何も選ばせなかったことも、勝手に俺の人生から消えたことも。


だが、お前を愛したことは、後悔していない。

お前が望んだように生きるつもりもない。


俺は、俺の人生を生きる。


その中で、お前を思い出す日があってもいい。

笑う日があっても、泣く日があってもいい。


……千景。


俺は、お前と年を取りたかった。』


そこで筆が止まった。


清継は目を閉じた。


若い千景の声が、耳の奥に蘇る。


『清継さん。俺が帰ったら、何がしたいですか』


『まず説教だ』


『ええ、そこからですか』


『……その後は、お前の好きにしろ』


『じゃあ、一緒に歩いてください。春になったら』


清継は目を開けた。


便箋に、最後の一行を書き加える。


『来年の春は、桜を見に行く。お前がいなくても。』


*


翌朝。

清継は軍服に袖を通し、鏡の前に立った。


かつて、軍服を脱いだ夜にだけ、千景は彼を清継と呼んだ。

肩書も階級もない、ただ一人の男として。


清継は襟元を整え、鏡の中の自分を見つめた。

そこには、千景が愛した若い将校とは違う男がいる。


けれど、その男もまた、千景を愛していた。


「……行ってくる」


清継は呟いた。


返事はない。

それでも、もう振り返らなかった。


窓の外では、夏の光が街を照らしている。


春は過ぎた。

明治も終わった。


けれど、人生は続いていく。


愛した人を忘れないことと、失った日に留まり続けることは、同じではない。


清継は戸を開け、新しい時代の朝へ歩き出した。


そして、季節が巡りまた春が来る。

そのとき彼は、桜の下で千景の名を呼ぶだろう。


悲しみだけではなく、愛しさを込めて。


――『明治、君を葬る春。』完。


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